雲は重く垂れ込めて 世界は暗くなるばかりじゃないか
俯いて立つ背や肩、白い首に、
あるいは
ぬらぬらと輝く鉄色のアスファルトに
雨は途切れなく降り注いで
地面に転がる奇妙に歪な四肢の、泥と赤とを洗い流した
暗くなるばかりの空には
享楽な雷が、捩れ、引き攣れ、歓喜して駆け巡る けれど
白々降り注ぎ
その肩をしとどに濡らすのは
五十六億七千万の憂鬱
『 Noface 』
「んなコト言われても」
呟く声は酷く不機嫌。
「俺だって好きで雨ん中歩いてたんじゃないし…」
放り投げられたタオルを受け取り、緋咲は濡れそぼった髪を掻き回した。
そしてもう一枚タオルを投げつけてくる岩崎をちらりと見る。
2コ上の友人は呆れた顔をして立っていた。
「好きでもなんでも、こんな天気なんだから傘ぐらい持って歩け」
真っ当な切り返しをする岩崎はバイト中らしく、ツナギ姿に少し汚れたタオルを頭に巻いて髪を纏めていた。
学年は岩崎が二つ上、歳は三つ上だったが、二人は妙に馬が合う。
緋咲は学校をさぼると岩崎がバイトしている板金塗装工場に遊びに行くことが多かった。
今日も数学担任の顔が嫌いで授業をさぼった。が、
生憎と、今日は昼から嵐だった。
気ままに歩いていた緋咲は散々雨に降られ、
今はまるで頭から爪先までシャワーを浴びたようにずぶ濡れだ。
服が肌にぺとりと貼りついて気持ち悪い。
二人が立話をしているのは工場の裏にある搬入用のスペースだった。
幅広の庇のおかげで雨は防げているが、それでも強い風が吹きこめば頬に冷たい雫を感じる。
空は黒々とした雲に覆われ、連なる街並は薄ら白い水煙に包まれていた。
どこか遠く、雷が鳴り響いていく。
緋咲は恨めしそうにそんな空を睨んでいた。
強かに雨に濡れたこともそうだが、もう一つ、彼の機嫌を悪くしていることがあった。
「で」
それが分かっているから岩崎もわざわざ聞き出そうとする。
「来る途中でまた喧嘩してきたんだろ。相手何人?」
濡れて貼り付く緋咲の白シャツには所々赤いものが散っていた。
幾分雨で流れていたが、それでも袖のあたりは鮮やかに染まっている。
にやにやと笑う岩崎に緋咲は黙って首を横に振った。
大した人数ではないと言いたいのだろう。
しかしこの苛烈な友人の規準が自分とは懸離れているのを岩崎はよく理解していた。
おそらく今でも冷たい雨の底に転がっているだろう誰かを思うと
ほんの少しだけ気の毒な気がしなくもない。
「汚ぇな……」
緋咲は雨で流れきらなかった血の痕を眺め、不機嫌なのを隠そうともせず吐き捨てた。
血を見るのは嫌いではないが
血で汚れるのは好きになれなかった。
それは柔らかな泥に浸るのに似た心持だ。
「そう思うんなら喧嘩なんかすんなよなー。適当に逃げちまえばいいだろ」
揶揄は笑みに紛れる。
緋咲は顔を上げ、岩崎の顔をじっと見た。
冷たい色の瞳がきゅうと細められ、唇が小さな弧を描く。
「逃げんのはもっとやだ」
事も無げに言い放つその答えがあんまり予想通りだったので岩崎は声を上げて笑った。
すぐにまたふざけるような表情に戻ったが、その瞳には微かに憧憬のようなものが浮かんでいた。
「若いねェ……」
雨音に紛れ、岩崎の低い声は少し聞き辛い。
「薫が誰とどんな喧嘩しようが俺は何も言わねーよ。けど、あんましやり過ぎて敵増やすな。
いつか飽きて止めようと思っても身動き取れなくなっぞ」
緋咲はただ静かに、血で汚れた袖を眺めていた。
濡れた髪から水滴がその頬に伝い落ちる。
やがて、ぽつり呟いた。
「なんかさ」
「なに」
「ジジ臭いっスよ」
岩崎は笑顔のまま緋咲の膝裏に軽く蹴りを入れた。
工場の奥から響いてくる電話の音に、二人はふざけるのを止めた。
しばらく待ってみたが誰も電話に出ようとしないようだ。
仕方なく岩崎は工場の中に戻ろうとする。
「今日は俺とあと2人しかいねぇんだよな……
急ぎの仕事も無いからさっさと帰ろうと思ったのに、おまえらは人の給料日になると来やがって。
どうせ飯おごらせる気なんだろ」
緋咲は臆面もなく、にこりと笑った。
それは岩崎の懐に期待した確信的な微笑だったが、岩崎はどうもこの2コ下の友人に甘いところがあり
苦笑いしつつ結局緋咲の思い通りになるのが常だった。
「さっきの話忘れんなよ」
一つ念を押して中に戻っていく岩崎の後ろ姿に、緋咲は曖昧な返事をした。
気の無い声だと、自分でも思った。
手近にあったパイプ椅子に腰を下ろし、寂然として雨に煙る彼方を見据える。
睫毛の影揺れる瞳には冷やかな憂い。
しかし時折剣呑な光が煌いた。
それに気付いていないように緋咲は煙草を吸おうとした。
が、この土砂降りの中をくぐってきた煙草が無事である筈もなく、溜息をついてしまう。
工場の裏は雨風を感じなくて済む分暖かいが、空気はじっとり湿っていた。
肌に纏わりつくその感覚にまた不愉快になる。
雨と血を吸いこんだシャツからようやく腕を抜き、
脱いだものを手に持ってみると意外に重かったので、戯れに両手で絞ってみる。
すると、溢れた水は呆れるくらい大きな音を立ててアスファルトの上に流れ落ちた。
その光景にうんざりするよりも
笑ってしまう方が先だった。
刹那、天で破裂した雷光が薄暗い水煙の街を切り裂いた。
雷鳴が地を震わせる。
緋咲は何気なく眼を上げ、そして唇から微笑の欠片を掻き消した。
ソイツが、そこに立っていた。
道路一本挟んだ所にこちらを向いて立っている。
いつからそこにいたのか。
今来たのか、それとももっと前からなのか、よく分からない。
ただ、ソイツに今まで気付かなかったということが、妙に気分をざわつかせた。
知らない顔の、はずだ。
たぶん二つか三つは年上だろう。
グレーのブレザーは緋咲の知らない高校の制服だった。
目鼻立ちは整っているように思うのだが、仄暗い雨霧のせいで表情がよく分からない。
ただ、降りしきる雨の中に差したビニル傘が如何にも安っぽくて、ソイツには似合わないような気がした。
悠然と佇んでいたソイツは、緋咲が自分に気付いたのを知ると唇の端を少し吊り上げた。
天を紫電が駈け抜ける。
一瞬の閃光を頼りに緋咲はソイツを凝視した。が、やはり知らない顔だった。
けれど、どこかで見たような気もする。
漠とした記憶を探るうちにソイツはもうすぐ傍まで来ていた。
濡れた傘を畳んで工場の中を一瞥する。
「岩崎は」
低い、良く響く声だった。
「……中にいる」
岩崎の知り合いなのだろうか。
しかしソイツは岩崎というよりは、緋咲のほうに用があるようだった。
その長身で見下ろすように、パイプ椅子に座ったままの緋咲を上から下まで眺める。
濡れ乱れた髪を、訝しげな切れ長の瞳を眺め
肋骨の下あたり、青白い肌に拳大程の痣があるのを見て取ると
「ふぅん」
微かに唇を歪めた。
その青痣は緋咲にとって行きずりの、憂鬱な喧嘩の名残だ。
ソイツが何か言う。
しかしその声は段々と近づいてくる雷に紛れてよく聞こえなかった。
するとソイツは顔を寄せ、今度ははっきりと言った。
「喧嘩か」
緋咲は唇を引き結んだまま小さく頷いた。
喧嘩の痕はそこだけでなく、自分の唇が少し切れて腫れていることにも気づいていたが
傲然とソイツを見据える。
値踏みするようなソイツの目が気に食わなかった。だから
「おまえ、名前は」
そう聞かれた時、緋咲は唇を吊り上げ
「あんたこそ誰」
胸を張って悪意を突きつけた。
八割方、相手を怒らせる自信があった。事実緋咲はその微笑でよく喧嘩を売った。
が、相手は値踏みするような眼差しのまま、にやりと笑ってみせた。
それは不遜なまでに余裕の表情で、緋咲の方が逆に鼻白む。
二度続けて雷が落ちた。
稲妻に瞬きもしないソイツの目はまるでガラス玉だ。
何か、いつもと勝手が違う。
漠とした思いを抱きつつ、緋咲はその目から視線を逸らさなかった。
叩きつけるような雨の中を殷殷として雷が鳴り響いていく。
互いの瞳の底を見透かそうとするために生まれた、仮初の静謐。
それを破ったのはソイツの方だった。
「俺は……」
その時、緋咲は突然怖気に似たものが背骨に沿って突き上げてくるのを感じた。
無意識に空を仰ぐ。
空気が震える。
瞬間、雷光の柱を確かに見た。
視界が破裂する白光に塗り潰される。同時に轟音が地を揺さぶって響き渡った。
地を這いずり回るもの全てを叩き伏せるようなその轟きは、あまりに圧倒的で
恐怖を通り越し、いっそ清廉として、胸のすくような音だった。
長い余韻が空に透き通っていった後、二人はただ呆れたような顔を見合わせた。
そんな顔しか出来なかった。
雨はいつか小降りになっていた。
「…近くに落ちた、かな」
「俺はあんたに落ちたと思った」
「そしたらおまえも死ぬな」
白糸のような雨の中に雲の絶え間から淡い光が差していく。
水煙漂う街からようやく雨音以外が聞こえてきた。
「おまえさっきビビっただろ」
「ビビってねぇよ」
「そうか?俺はビビったけどな」
悠々としたソイツの笑いを見上げ、緋咲は呟いた。
「うそつけ…あんた性格悪いって言われるだろ」
酷薄な唇に浮かんだ微笑は氷のような棘を含んでいたが
ほんの少しだけ楽しそうだった。
「薫」
自分を呼ぶ呑気な声に緋咲は振り返った。
岩崎が眩しそうに目を細めながら二人の傍に戻ってくる。
「雷すごかったなー。おまえらずっとそんなトコにいたのか?」
「中にいるよりすげぇ迫力で楽しかった」
けろりとして言う緋咲に岩崎は呆れた顔を向けた。
「いつまでそんな格好してんだ。奥の部屋に俺の着替えがあるからさっさと行け」
軽い調子で返事した緋咲はさっさと工場の中に戻ろうする。
ふと、その足が止まった。
冷たい色の双眸がソイツを見据える。
緋咲は何か言おうとするが
「薫」
岩崎に言われるとそのまま歩いていった。
その姿が薄暗い工場の中に消えてから、岩崎は初めてソイツと目を合わせた。
もう長い付き合いになった友人は、いつもと同じように小さく笑い、
濡れた傘を岩崎に返すともう片手に持っていた煙草も渡した。
岩崎も顔を綻ばせた。
「悪いね。AJSの會長さんをパシリに使って」
「あぁ、高くつくと思っていいからな」
「言ってろ」
二筋の紫煙が大分明るくなった空にゆっくりと立ち昇っていった。
「さっきあいつと何喋ってた?」
「……別に、大したコトは言ってねぇよ」
「なんだ、焦って損した。あいつが来てから俺はずっと冷や冷やしてたんだけどな…」
「何で」
「おまえらが会ったら絶対どっちかが喧嘩売ると思ったから」
二人は互いの目を見交わして、にやりと笑った。
「俺は、何にもしてねーよ」
「ふぅん…」
岩崎は訝しげな顔をしたが、彼の友人は悠然と紫煙を燻らせるだけだった。
「で、おまえから見てどうよ?あいつ」
すると、煙草を銜えた口許が少し吊り上る。
「生意気だな」
「クソがつくほどな」
げらげら笑いながら岩崎は続けた。
「じゃ、おまえには言っておくわ。他の奴には内緒な」
「あぁ。で、なんだよ」
「あいつが十一代目だ」
岩崎の言葉は端的だったが、彼の友人には充分通じたようだ。
普段あまり感情の起伏を感じさせない目に驚いたような光がある。
岩崎は気楽に笑っていた。
「麓沙亜鵺の十一代目はあいつに決定。そこんとこヨロシク。
あ、これ他の奴にも言ってないんだからな、内緒な?あいつにだって言ってねぇし」
一拍遅れて相手は口を開いた。
「いいのか。あのガキまだ中坊だろ」
「俺の2コ下。けど、俺だっていますぐ引退ってわけじゃねーし。次の春のお話な」
「…まぁ、人のチームをとやかく言うつもりはねぇよ。
いきなり2コ下がチームの頭になったらどうなるか分かっていて言うんだろうし」
「あー、分かってる分かってる。きっと楽しーコトになるなぁ」
「他人事かよ…」
岩崎はただ楽しそうに笑っていた。
自分に向けられる呆れた顔も充分予想出来た。しかし、これはもう随分と前から考えていたことだった。
「人んちの心配より自分とこはどうなんだよ」
「うちも頭の悪い奴が多いからな…」
「“うちも”って、俺んとこもバカばっかみたいじゃないか。失礼な奴だ」
「そりゃ悪かったな。まぁ、俺のすることなんかあまりねーよ。會長なんてのは所詮飾りだ。
俺は好きにしている……あぁ、思い出した」
「なんだよ」
「あのガキ、どこかで見たと思ったら、俺が會長になった時の集会で見かけたな」
「へぇ…、初めて聞いた」
「忘れたんだろ。俺も忘れてた……そうか、あいつか」
何か、含みのある言い方に聞こえた。
しかし岩崎が問う前に、彼の友人は晴れ間の見え始めた空の下に足を踏み出している。
「そろそろ行く。迎えに来る奴がいるんだ」
「…・なんだ、おまえも俺にたかる気だと思った。
俺はこれからあいつに飯おごらなきゃいけねーの。一緒に来るか?」
「今日は止めとく」
鉄色に濡れたアスファルト、ぎらぎら反射する水溜り。
雨上がりの街を悠然と歩く友人の背中を岩崎は呼び止めた。
「渉」
「ん?」
「あいつに妙なちょっかい出すなよ」
「…なんだよ。俺が何かすると思ってんのか」
「あぁ、思ってる。おまえ性格悪いからな」
思いきり言い切った岩崎に、彼は声を上げて笑った。
「そう言われたの今日で二回目だ」
結局、緋咲は岩崎に何も聞かなかった。
しばらくして、その日のことも頭に昇らなくなった。
ただ、ガラス玉みたいな目や、その声は午睡の夢のようにぼんやりと記憶に残った。
いつか必ずもう一度会うという予感と共に。
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岩崎という人は、原作では緋咲さんの前に麓沙亜鵺の頭してて
今は塗装工ってことぐらいしか分からないんですよね。顔すら出てきません。
が、しかし考えてみればこの人って重要だったのかもしれません。
さぁ、ここで7巻を見てましょう!!
「拓ちゃんのお友達カンケー図」を見ると麓沙亜鵺と阿修羅王が友好カンケーになってる…
嘘だろ!?
と言いたいところですが書いてあるものは仕様が無いので、これを解釈してみますと
阿修羅王と友好関係だったのは緋咲でなく岩崎だったんじゃないでしょうか?
麓沙亜鵺は岩崎の代までは漠羅天とも交流があったのようなので、
少なくとも彼は緋咲よりは対外的に友好な方だったのかと。
ところで散々「性格悪い」と言われてる人がいますが、僕自身はあまりそう思っておりません。
むしろ「いい性格」してると思います。
いやいやいや、あの漫画の中だったら結構まともな方の一人だったと思っています(笑)
WORKSにダッシュで帰る!