『不運』


彼は教卓につくと徐に教室全体を見回した。
四年制大学を卒業したての彼が受け持つ事になったのは、小学一年生の1クラス。
今日は初めてのHRだった。
無論彼は緊張している。
教育実習で短い間だけでも教鞭を取ることはあったが、実際にクラスを任されるのはこれが初めてだった。
しかしこうして教卓に立ち、クラスの生徒を見てみれば、あどけない皆の顔には彼と同じように緊張と、
それでいて何か楽しいことを待ち望むような無邪気な興奮があった。
その表情が彼を奮い立たせる。
彼は静かに息をつくと、手始めに出席を取ろうとした。
生徒の名前を読み上げる彼の声に淀みは無い。
しかしそこから彼の不運は始まっていたのだ。
彼の不運は三つある。
一つは、名簿の順序が完全に五十音順であり、男女別でなかったこと。
もう一つは“その子”の前に3人女子が続いていたこと。
最後に、“その子”の前に座っていた女子が平均より背が高くて、
彼からはその子の姿がほとんど見えなかったこと……
だから彼は“その子”の性別を名前の字面だけで判断し、
「……ひざきかおる“サン”」
そう呼んだ。
返事は、無い。
おかしいと思いもう一度呼ぶと、視界の隅を何か白くて小さなものが掠め飛んだ。
出席簿から顔を上げると、今度は飛んできたものが額にあたる。
消しゴムの欠片だった。
「今これを投げたのは誰ですか!?」
彼が消しゴムの投げられた方を向いた時、思わず少し怖い顔になっていたのかもしれない。
目が合った女の子が慌てて首を横に振り、身体をずらした。
そこで初めて、彼は“その子”を真正面から見た。
頬杖をつき、こちらをじっと見据えている姿は、明かに他の生徒とは纏う空気が違っていた。
酷く冷たい眼差しが彼の唇を凍りつかせ言葉を奪う。
彼がようやく自分の過ちに気付き、掠れた声で名前を呼び直すまでしばらく時間がかかった。
「ひざきかおる“クン”」
きゅうと細められた双眸から冷たさが消え、彼は思わず自分が安堵の息をつくのを感じた。
一拍遅れて気の無い返事が返ってくる……


緋咲は目を開けるとしばらくぼんやりしていた。
「緋咲さん」
土屋がすぐそばにいて顔を覗きこんでいる。
それでようやく自分がソファーに座ったまま、うたた寝をしていたことに気付いた。
「何かうなされてましたけど、大丈夫ですか」
周りにいた麓沙亜鵺の連中も気遣うように声をかけてくる。
「緋咲サン、大丈夫ですか?」
「緋咲サン、具合悪いんですか?」
緋咲はそんな連中をぼんやりと見上げ、一言だけ呟いた。
「……おまえら、その呼び方止めろ」
「は?」
そうしてまた緋咲は眠りに落ちた。




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名前を間違えられるって、嫌ですよね。


お帰りはこちら。