『 liquid soul 』
暗い部屋に大珠は一人いた。
半地下の倉庫のようなその場所。
壁際に積まれた木箱、床に転がったビールケース。
種々の雑多なものたちのは、小さな嵌殺しの窓から差し込む外界の光に照らされて
偶然幾何学的な陰影を床に描いていた。
天井の、ガラス管が剥き出しの蛍光灯が光を生まないのは幸いだ。
窓からの僅かな光も差さない闇で、大珠は一人微笑んでいる。
古い友人を前にしたような親しげな微笑。
それを受け止め微笑み返す人間は誰もいない。
大珠の瞳は決定的に虚ろだった。
それは目の前のものを何一つ映そうとせず、顔に穿たれた穴にすぎないかのように、暗い。
大珠の視界、存在している世界はそこではない。
見開かれた眼窩の奥、
どこまでも果てなく広がる暗い暗い水面。
静かに滑らかに張り詰める闇。その茫漠とした淵に大珠は立っていた。
懐かしいその風景に、小首を傾げて微笑んでみる。
身体の奥から込み上げてくる引き攣った笑いにも、暗い水面は揺らぐことは無く。
ただ美しい、吐き気がするような清らかさで大珠の前に広がっている。
ここにいるのは嫌いだ。
その思いは浮かび、すぐに消える。流水に生まれた泡のように。
ここにいるのは怖い。
その思いもすぐに消える。手にすくった水が指の隙間から零れ落ちるように。
震える腕で自分の身体を掴んだ。
大きく口を開けて何かを叫ぼうとした。
細胞が火を吹いて、次々と込み上げてくる感情の渦が神経を焼き切る。
なのに、それは消えてしまう。
散々に食い散らかされてバラバラになり溶けて消えていく。
僅かな残滓すら残さずに。
初めから何も存在しなかったように。
暗い水面は完全な鏡面を保ったまま、張り詰めた柔らかさで視界を覆う。
ただ自分だけが見る間に指の隙間から零れ落ちて虫食いになっていく。
紛れも無い恐怖が突き上げてきた。
けれどそれすら端から食い千切られていく。
叫ぼうとした口は何も音を生まないまま凍りついた。
身体を芯から震わせる喪失感。
脳味噌の闇から無理やり記憶が引き摺り出される。
次々と鮮やかに絵を変えていく、コマ切れの雑多な映像群。
それに縋り付きたくて腕を伸ばした。それは失いたくなかった。
けれど、やはりみな闇に食われて消えていく。
少しはにかんだ友達の笑顔も。
消えてしまった。
大珠はそれを手の中から無くしてしまった。
もうすっかり虫食いになった身体を悲しみが吹き抜ける。
けれど、どうしてそれを無くしてしまったことが悲しかったのか。
その理由すら零れ落ちて闇に食われていく。
悲しかった。
そして何が悲しいのか分らなくなった。
悲しいと言う事が何なのか分らなくなった。
そうして、何も無くなってしまった。
目の前、暗い暗い水面。
大珠の中の全部を食べてしまったのに、やはり揺らぐこともない
美しい優しい、虚ろな世界。
その茫漠とした暗い淵に大珠は一人立っていた。
自身の世界を支配する暗い水面に、大珠が優しく微笑んだ時
半地下の部屋の外で階段を降りてくる音が響いた。
錆の浮いたドアが開かれる。
「……何だよココ」
鼻先に広がっている暗闇に、部屋に入ろうとした相賀は顔をしかめた。
「本当にこんなトコにあいつがいんのかよ、土屋?!」
羽虫のような音を立てて剥き出しの蛍光灯がつく。
薄く緑がかった光が淡くその場を満たした。
「いただろ、そこに」
照明のスイッチの傍に立つ土屋は、部屋の隅を指した。
壁際に積まれた木箱に寄りかかっている大珠を真っ直ぐに指差す。
大珠はゆっくりと顔を上げようとした。
暗い淵から、脈絡も無く視界は切り替えられる。
ノイズの酷い画面に今にも掴みかかりそうな相賀が映った。
けれど片目はまだ、完璧な平行を保つ水面を眺めていた。
ジリリと耳障りな音を立てて蛍光灯が明滅する。
緑がかった視界が揺れる。
その奥で揺らぎのない水面が暗く虚ろな口を開けている。
出来の悪いテレビのような自分の視覚に大珠は笑った。
大珠と目が合った瞬間、相賀は形容し難い怖気に襲われた。
深遠の闇より遥かに虚ろな瞳が親しげな笑みを浮かべてくる。
「何へらへらしてんだよッ!?」
自分が感じたものを許せなくて相賀は大珠の襟首を掴んだ。
「相賀!!」
張り詰めた土屋の声を無視して殴りかかる。
ただ大珠の笑いを目の前から潰したかった。
瞬間、相賀の傍らで空気が切り裂かれる。
「え?」
後ろから伸びてきた脚が相賀を掠めて大珠の鳩尾を正確に蹴り上げた。
重い衝撃にその身体が吹っ飛んで壁に激突する。嫌な音が響いた。
振り返った相賀が見たのは、冷たい色の瞳。
「緋咲さん!」
「どいてろ、相賀」
大珠から目を逸らさずに緋咲が短く答えた瞬間、蛍光灯が明滅する。
次の瞬間相賀が見たのは、大珠の頭を掴んでその顔に膝を叩きこんでいる緋咲だった。
また耳障りな音を立てて緑がかった光が明滅する。
崩れ落ちそうになった大珠を緋咲の左拳が殺意を孕んで抉る。
ぴちゃん。
相賀は頬に何かはねたのを感じた。
指で触れてみる。赤く塗れた。
目の前を流れていく光景を魅入られたように眺めていた相賀は我に返り、邪魔にならぬように退いた。
ふと見ると土屋が傍に立っていた。
何だか難しい顔のまま腕組みして緋咲を見ている。
その視線を追うように緋咲に目を戻す。
白い頬に赤いものが散っていた。
冷たい色の瞳に欠片の感情も浮かべぬまま、緋咲は的確に大珠を壊していく。
大珠は少しも抵抗しない。出来ないのか、する気も無いのか。
虚ろな瞳で緋咲を眺めていた。
緑がかった視界がまた明滅する。
その下の、奇妙に表情の無い二人。
音だけが生々しく響く、異様に空虚な部屋。
どうして自分はそんな風に思うのか。
相賀は分らぬまま、喉にかかる気持ち悪さのままに口を開いた。
「……緋咲さん……」
なんとなく、これは緋咲の普通の喧嘩じゃない。
少しそんな風に思った。
また光が明滅する。
不意の、溜息。
大珠の上に馬乗りになり、もう殴る個所が見当たらないほどその顔を殴っていた緋咲が唐突に動きを止めた。
「…つまんねー……コイツ、もうダメだ…」
独り言のように呟いて、拳をだらりと降ろす。
「どうしたんですか」
土屋の問いに緋咲は気怠るそうに首を振った。
「ダメだコイツ…脳味噌腐ってやがる」
そう言って覗きこんだ虚ろな眼窩。
そこには闇しかない。
優しい静寂の闇。
暗い水面を眺めながら、大珠は緋咲の声を遠くに聞いていた。
その冷たい色の双眸を見上げていた。
それが誰なのか認識する前に視界はノイズに食われる。
緑に明滅しているその画面を、自分はもう随分と遠くから眺めているだけ。
白い指が大珠の眼球を撫でた。
「つまんねー……俺が殴る価値も無ぇな?てめーは」
冷たく透き通る、蔑み。
純粋な侮蔑に滑らかな水面が微かに震えた気がした。
果てなく広がっていた正しい鏡面に水紋が一つ、生まれる。
すっかりやる気を無くした緋咲の声に、相賀は口をとがらせる。
「でも緋咲さん!こいつ美麗の頭なんですよ?だったら今のうちに潰しちゃったほうが…」
「だったら相賀、てめーがやるか?」
相賀は、血塗れのまま虚ろな目を見開いている大珠を気味悪そうに見下ろし、首を横に振った。
「土屋は」
緋咲は難しい顔をしたままの土屋に声をかける。
「いえ」
短い返答の中に含まれていたものに、緋咲は視線を上げた。
「なんだ」
「…ただ、こいつがフツーじゃねーのは緋咲さんも分ってますよね。
今はこんなんですけど…後で面倒なコトになるかもしれませんよ」
緋咲は大珠を詰まらなそうに見下ろした。
眼窩の奥に広がる底無しの闇を冷ややかに睥睨する。
「関係ねーな。
このアホがこのまま脳味噌腐らせてんなら美麗なんざクソだ。だったら潰す。
もしコイツがちっとでもマシになって、まだ俺の前チョロチョロする時は、やっぱり潰す。
そんだけだ」
土屋はもう何も言わずに頷いた。
居心地悪そうに二人の会話を聞いていた相賀はさっさとドアに向かった。
「じゃー、もう行きましょーよー。もういいんでしょ?」
大珠とこれ以上同じ空間にいることは、生理的に嫌だった。しかし、
「……ん、土屋」
「はい?」
「相賀と上でちっと待ってろ」
「ハァ!?」
相賀の声は軽く無視された。
「いいですけど、緋咲さんは?」
「コイツに聞きてーことがある」
土屋はしばらく緋咲をじっと見、
「脳味噌腐ってんじゃなかったんですか……ホラ、行くぞ相賀」
まだ色々言いたそうにしている相賀を引き摺るようにして部屋の外へ出た。
「あっ!?ちょっと待っ……!」
錆の浮いたドアが重い音を立てて閉じられる。
静謐が緋咲を取り囲んだ。
その中、緋咲は悠々と煙草を銜え紫煙を燻らせる。
「……おい」
大珠の顔を掴み、間近に虚ろな眼窩を覗きこんだ。
「俺の声が聞こえんだろ」
冷ややかな侮蔑は確信を秘めて囁かれる。
嫌悪感剥き出しの双眸を大珠は確かに見上げていた。
深い暗い淵に立ちながら、それでも緋咲を見据えていた。
燐。
熱の無い焔が暗い水面で揺れている。
どうしてか、笑いたくなった。
けれどどうすればいいのか分らなくて、大珠はただ名を呼んだ。
血塗れの口から洩れた、酷く掠れた音に緋咲は柳眉をひそめた。
「一色…てめー……」
緋咲は珍しく言淀み、舌打ちする。
白く長い指が口から煙草を摘み、投げ捨てた。
「…てめー、あいつのギグ見たコトあんだろ」
ぞわり。
何かが身体の中で震えだす。
けれど虫食いにされた身体の中に何が残っていたんだろう。
分らなくて大珠は小首を傾げる。
「あいつの音聞いたんだろ……」
音
闇が震える、音を
聞いた気がする。
ぞわり。
暗い水面が波立つ。
水面に生まれゆく漣が正しく平行を保っていた世界を怯えさせていく。
それは旋律だ。
高く低く、閃いて透き通り 獰猛に大気を噛み千切って
無軌道に高みへと上昇し 優しく震動して破裂していく
暗い水面の中からそれは聞こえる。
頭上を取り巻く闇からそれは聞こえる。
深遠の暗黒を切り裂いて何かが現れる。あれは……
「だから、てめーはこうなったのか…?」
ほんの微かな、溜息に似たものがまた緋咲の唇から零れた。
きゅうと細められた双眸は大珠を忌むべきもののように射貫き
そうして
不意に白い目蓋は伏せられ、冷たい色の瞳はもう大珠を見ようとしない。
「……バカが……」
吐き捨てる冷たい侮蔑に大珠の目が開いた。
唐突に全てを思い出す。
唐突に全てを理解する。
意味あるもの全てが大珠の中で再構築されていく。
何モ持ッテイナカッタ、カラッポノ自分ガアレホド欲シガッテイタノハ
気ガ狂イソウナホド空ヲ祈ッテイタアイツガ欲シガッタノハ
目ノ前ノ緋咲ガコンナ顔シテ自分ヲ見テイルノハ
ドウシテ俺ハ
身体の奥から突き上げてくるこの引き攣った笑いを、どうすればいいんだろう。
掠れた笑いが血塗れの口から洩れる
大珠の腕がゆっくりと持ち上がった。
「…汚ぇ手で俺に触んなよ」
自分に触れそうになった指を叩き落し、緋咲は緩慢に立ち上がった。
大珠はまだ笑いを収められずに手で顔を押さえる。
そうして、震える喉がようやく音を搾り出した。
「……上等……」
緋咲は薄く微笑し、その脚で大珠を蹴った。
静かに階段を上がってきた緋咲は新しい煙草を銜えた。
その姿を待っていた土屋が火を差し出す。
冷たい色の瞳は無感動に小さな焔を眺め、それから土屋を見据えた。
「喧嘩の準備しとけ…」
相賀が嬉しそうな声を上げる。
「で、……どうだったんですか?あいつ」
土屋は緋咲の表情を逃さぬように、じっと視線を注ぐ。
「脳味噌腐ってんな、やっぱりダメだろ…」
そう言いながら、緋咲の酷薄な唇は弧を描いた。
冷ややかなその微笑は、どこか楽しそうだと土屋には思えた。
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えー、小説版の2、3巻あたりには大珠の話が結構詳しくあるんです。
大珠は時貞のギグを見てから、薬に手を出すようになったんですが、
どうもそれ以前から……人として疑問を持ちたくなるような状態だったようです。
“暗い淵”というのは、彼にとって自然な心象風景で、
“ノイズ混じりの画面”というのが彼の中の毒なんだそうです……。
結局、秀人くんとタイマンした後に薬は止めたみたいですが、
まあ皆様、小説版を読んでみてください。かなり彼は原作者に愛されてる気がしますよー。
もう帰る!