見上げれば
暗い波間に月はゆらゆらと
見惚れるうち 指が 腕が水泡に溶けていく
けれど 眼は閉じ忘れたまま

青い水が ぶるると震えて
やる気のない溺死体は沈んでいく




 『カタルシス』




目を覚ますと、そこには空があった。
朝を迎え、青白く透き通っていく空。
一瞬、夢の続きかと思い、土屋は大きく息を吸った。
喉に流れ込むのは水ではなく
少し湿った朝の空気。
「……あ?」
思わず少し頓狂な声を上げてしまった。
身体の節々が痛むのを堪えて辺りを見渡すと、どうもそこはアパートの駐車場らしい。
そして固いアスファルトに脚を投げ出し、自分の単車に背を凭れている自分に気付く。
どうやらその体勢で夜を明かしたようだ。身体は芯から冷え切っていた。
なんでそんな事になったのか。
ぼんやりした脳味噌で考えてみる。
目を覚ます直前まで何度か妙な夢を見た気がしたが、もうどうでも良かった。
頭上ではだんだんと青が深くなり、鳥のさえずりが澄み渡る。
つられるように顔を上げた瞬間、鈍い痛みが襲った。
まるで頭蓋骨を誰かが楽しげに連打しているようだった。
「…またか」
痛みと同時に状況を理解する。
これは二日酔いだ。
昨日は飲んでいた。
三軒目までは場所も面子もなんとか思い出せるが、その先の記憶はぷっつりと切れている。
記憶が無くなるまで酔うのは今までにも何度かあったが、外で目を覚ましたのはこれが始めてかもしれない。
単車で帰ってきて、部屋まで行けずにそのまま眠ってしまったんだろう。
どうせ部屋はもうすぐそこなんだから、もう少し身体に頑張って欲しかった。
とりあえず自分の身体を見回すが、特に変わったところはない。
ただ少しベタベタして気持ち悪かった。
右手が半ば無意識に携帯を取り出したが、どうやっても画面に何も映らない。
壊れていた。
原因を思い出そうとしても、頭痛が酷くなるだけ。
悪態をつく元気もなく立ち上がると、ほんの数秒、視界がぐにゃりと歪むが無理に足を前に進める。
身体が酷く重かった。
のろのろと歩き、ようやく自分の部屋まで来る。
鍵は、開いていた。
掛け忘れた、なんてことは無いだろう。
一気に扉を開けてみると、ざっと見た限り部屋の中は別段変わったところも無い、
と思ったら自分のベッドで誰かが眠っていた。
相賀だった。
「…おい、起きろッ」
安らかに寝ているその頭を容赦なく叩く。
「俺が外で寝てたのに、なんでおまえが俺の布団で寝てんだよ!」
相賀は何かむにゃむにゃ言うと、ぼんやり目を開けた。
「今、ぶったな」
「うるさい。もう一回殴るぞ」
軽く殴ろうとすると下から弾かれた。
「ったく、朝から土屋は何してーのよ…」
「いーからさっさと起きろ。俺は眠ぃんだよ」
ブツクサ言いながら相賀はベッドから降りた。
その途端、土屋の身体がそこに倒れこむ。頭痛と眠気で既に限界だった。
「……相賀、おまえ昨日飲んでたろ。いつ家に来た」
「んー、知らん。潰れたから誰か送ってくれたんじゃねーの」
「……なんで俺んちなんだよ」
言いながら土屋は自分の呂律が怪しくなっていくのを感じた。
頭の半分はもう眠りについてしまったのかもしれない。
「ま、いいや。俺はちっと寝る…」
不服そうに相賀が何か言ったが、聞こえなかった。
固いアスファルトと違い、柔らかな寝床は易々と眠りを引き寄せる。
やがて脳味噌を揺さぶる痛みも消え、身体からは力が抜け
いつか水底の泥のように溶けていく。




溶けていく
水はぶるると青く震え、指が、爪先が泡になって溶けていく
口を開けば
喉に流れ込むのは水ばかり
何か言おうとしたような気もするけれど
もう肺の中まで海になっている
そうして暗い暗い水の中へと沈んでいった
見上げれば 波間はもうあんなに遠く
漂う月もあまりに遠く
水底を寂しげに彷徨う死体を 誰かが笑っていた





そこで目が覚めた。
思わず大きく息を吸いこむ。
気管に何かが引っ掛かったみたいでむせてしまった。
「あ、ほひた?」
すぐ傍で脱力させる声がした。
それっきり夢のことは意識に昇らなかった。
土屋はようやく息を整えると、そちらに顔を向けた。
「…おまえ取り合えずソレを口から出して話せ」
相賀はアイスを銜えたまま真剣な眼差しでゲームをしていた。
瞳にテレビの画面が反射して、鮮やかな色彩が乱舞する。
コントローラーを握ったまま相賀は喋った。が、それはまるで言葉になっていなかった。
「何言ってるか全然分かんねーよ」
「ふなこほひわれれも……んがッ」
口からアイスを落しそうになって相賀は慌てた。
「大バカ…」
その声を聞いた相賀はアイスを片手に持つと首を傾げた。
「おまえ声が変。風邪でも引いたんじゃねーの」
言われてみると、少し喋っただけなのに喉が痛かった。
「…そーかも」
鼻が詰まったみたいに音が濁った。
「さっき気付いたらそこの駐車場で寝てた」
「うわ、バカじゃねーの」
さっくりと追い討ちをかける言葉には、たぶん悪意は無いと思う。
たぶん。
けらけら笑った相賀はしかしすぐに困ったような顔をした。
「えっと…じゃあ俺はどうすりゃいいのかな。薬とかあんの?」
「そんなのねーよ」
「んじゃあ買ってきてやろーか」
「寝てればそのうち治るからほっとけ。…ゲームすんならソレ持って他の奴んとこ行きな」
「あ、これは土屋が起きんの待ってたんだ。岩崎サンからおまえに伝言頼まれてんだよ」
土屋は眉根を寄せて相賀を見上げた。
先代の頭がいったい何の用なのか。
「今日中に緋咲サン捕まえとけってさ。
あの人、携帯に全然出ねーし、どこ行ったか分かんねーし。そんでおまえんトコにも電話したけどダメで」
「あぁ、俺の壊れたんだ」
「で、何か用事あるから今日中に緋咲サン捕まえろって」
緋咲は一度ふらりといなくなると、なかなか帰ってこない。
土屋は大きく溜息をつき、決心して勢い良く身体を起こそうとした。
途端に酷い頭痛が始まる。
「おまえ、動くな。顔色怖ぇよ」
相賀に言われるまでもなく、またベッドに倒れこんだ。
風邪と二日酔いが相俟って頭の中で暴れていた。
「とりあえず緋咲さんのコトは俺が行くから、土屋は寝てろよ」
涸れた喉で低い返事をした。
ぐったりした土屋を一瞥し、相賀はテレビを消した。
部屋の中がしんと静まり返る。
相賀はなんとなく小声で聞いた。
「昨日って結局最後はどーなったんだ?俺は途中で潰れたからよく分かんねーけど
土屋は最後まで一緒に飲んでたんだろ。その後緋咲サンがどーしたか知らねーの?」
「……全然憶えてねー……」
漣のように押し寄せる頭痛に耐えながら、土屋は昨日のことを思い出そうとした。
けれどやっぱりその記憶はある所からぷっつり切れている。
思い出すのは、ほんの少しだけ目許を赤くした緋咲と、見ているこっちが酔いそうな飲みっぷり。
今思えばあのペースに付き合ったからこっちが潰されたんだろう。
その後どうなったかは、分からない。
「まぁ、でもここには来なかったのかな」
相賀はアイスをかじりながら呟いた。
「もし一緒なら土屋が外で寝てる筈もないだろうし」
「うるせぇよ」
その時、低い小さな振動音がした。
「……うん?」
ベッドの脇に置いてあるテーブルの下から、相賀は音の原因を拾い上げた。
「…これって緋咲さんの携帯だよな?」
マナーモードになっているそれには確かに見覚えがあった。



相賀が出ていった後、土屋は一人ベッドで目を閉じていた。
熱のせいなのか、意識がうつらうつらとして夢と現を行き来するなか
ぼんやりと昨日のことを考える。
きっと緋咲はここに来ていたんだろう。この部屋まで来て、そうして
完璧に潰れていた自分は、たぶん、外に放っておかれた。
それはまったく有り得る話だ。
だから、別にどうってこともない。
無い。
鳩尾が握り潰されるような気分なのは、この酷い頭痛のせいだ。
重く、自由にならない身体に心が引き摺られているだけだ。
まさか、放っておかれたのを気にしている、なんてことはない。
煙草が吸いたくて腕を伸ばした。
一本探り当てたがジッポを床に落としてしまった。
拾い上げる元気は無かった。
病んだ脳味噌は煩わしくなるほど何度も昨日のことを考え、その度に否定し
やがて疲れて深い眠りについた。
そしていつかまた、あの暗い波間の夢に飲まれて。
身体は青い水泡を纏いながら沈み
もう何度目かの溺死体を
月が笑い
波が笑い
あの人が笑っている

何がそんなに楽しいんすか、緋咲さん


瞬間、無理やり目を開けた。
なんで夢の中まで、あんな気分にならなくちゃいけないんだ。
大きく息を吸おうとして
喉に勢いよく流れ込んだのは、水だった
見開いた目に映るのは、波間で揺らぐ小さな月と

白い指

















煙草の匂いがした。

「ほっちひゃくれす」
「あ、じゃあさっきのトコか」
「ほうれす」
微かに甘い煙草の匂いと、特徴あるゲームの音。
土屋は茫と目を開けた。
「銜えてるとまた落すぞ」
「ふぁい」
部屋に誰かいる。
気の抜ける声と、もう一人は。
「…で、さっきの話の続きなんすけど」
「昨日か?」
「そっす」
「土屋か…アイツはたぶん途中までは普通だったんだと思う。あんまし顔に出さねー奴だからよく分かんねーけど。
で、そのうち言ってる事がヤバくなってきて」
「あいつ昨日のコト何も覚えてねーとか言ってましたよ」
「…ふぅん、だろうな」
「そんで、どーしたんすか」
「何時頃だったかな、アイツがいきなり海見てぇとか言ったから行ったんだよ。
で、アイツは海ん中入ってって…けど水はそんなに深くなかったし、普通に歩いてたから、ほっといたんだ。
そしたらアイツ、笑いながらいきなりコケやがった」
「ギャグでしょ」
「俺も酔ってたし、爆笑だったんだけどなー……なのにアイツなかなか海から出てこねーんだよ」
「普通に溺れたってことっすか」
「すげービビったから急いで引き摺り上げたんだ。そしたら土屋の野郎、海水ゲロゲロ吐いた後でまだ笑ってたんだよ。
俺、あん時が一番怖かった……」
「つーか、バカっすね。その後どーしたんですか」
「何も。アイツ普通の顔して単車乗って帰ってったはずだぞ」
「駐車場で寝てたらしいっすよ」
「…あぁ、それでか。俺あの後で一回こっち来たんだよ。そしたら土屋いねーし、おまえは寝てるし。
なんだ、アイツすぐそこにいたのか」
その会話を聞きながら、土屋は茫としていた目を閉じた。
そのままもう一度眠りたかった。
きっと、あの夢はもう見ないだろう。
見たとしても続きがどんな風になるか、分かるような気がした。
「ところで」
「なんすか」
「さっきからアイツものすげぇ顔してる」
「…うわ、ホントだ。おーい、生きてるかー?」
仕方なく目を開けた。
相賀が顔を覗きこんでくる。
「よー、さっきソコで緋咲さんと会ったんだけどさ」
耳元で大きな声出すんじゃねーよ。
そう言おうとしたが、風邪のせいで喉がやられたらしく、聞き取りづらく掠れた音しか出なかった。
「風邪薬買いに行ったんだけど、どれがいいのか分かんねーよ」
「とりあえず一種類一粒づつ飲ませたら面白いんじゃねーか」
相賀の後で恐ろしいことを呟いたのは緋咲だった。
土屋は手振りで相賀を脇に寄らせると、緋咲を傍に呼んだ。
「なんだよ」
冷たい色の双眸を真っ直ぐに見上げる。
涸れた喉からどうにかして音を絞り出し、ゆっくりと喋った。
「昨日は世話になりましたね」
「…おまえ覚えてんのか」
「いや、ほとんど覚えてないですよ」
「ふぅん…まぁ、いいや。もうしばらくおまえとは飲まねーからな」
「んな事言わずにまた飲みましょうよ…」
土屋は緋咲を引き寄せると低く囁いた。
「緋咲さんのビビった顔、楽しかったんで」
「……覚えてんじゃねーか」
緋咲は少し不機嫌になる。
土屋は遠慮なく笑った。とにかく色々なものを笑い飛ばしたかった。
そうして軽く殴られる。





「さっさと風邪治せ」




























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キリ番4444踏んでいただいた緋川さんからのキリリクお題は『報われている土屋』でした。
どうもリクエストありがとうございました。
しかし、報われている土屋…………
ああああぁぁぁあああああッ(血涙) すみませぬ!!どこが報われているんだ、な話になりましたッ
どう考えても報われ度が低い気がします。いったい誰のせいだ!
お、俺だァ!……ちょっくら反省室に逝って参ります



WORKSに走って帰る!