『行きたいね』





黒く細長い奇妙な脚。
青の深い空を這いまわる。
斜めに走る白い筋雲を飛び越えて
悠々と、まるで泳ぐように。
その針のようにほっそりした爪先が、今
成層圏を突き進む銀の飛行機を蹴りつける。

どこか、蝉が鳴き始めた。
カレンダーが風に揺れた。
壁に掛けられた、四角い真っ平らな青空は大きくめくれて
そこに這っていた小さな蜘蛛の影も見えなくなった。
見るともなしにそれを眺めていた龍也は、パイプ椅子に思いきり凭れた。
そのまま首を逸らせ、上を向く。
真嶋商会の作業場は、採光のための窓が天井近くに並んでいた。
四角い青空がここにも一列になっている。
蝉の鳴き声は、その梅雨明けの空から降ってくる。
まだ早いんじゃないか。
そんなことを思いつつ、龍也はぼんやり呟いた。
「オーストラリア」
言った後で暫し考える。
そしてほんの少しだけ首を傾げた。
誠はその時、夏生と一緒にここ暫く掛かり切りだった単車を前にして、難しい顔をしていたが
龍也の答えには思わず顔を上げて聞き返した。
「オーストラリア?」
きょとんとした誠と、肩越しに振り向いた龍也の目が合う。
二人は、互いになんだか不思議そうな顔をしているのを見て取った。
薄く軽やかな沈黙。
蝉が鳴き止む。
「行きたいの?」
「……別に」
龍也は曖昧に答え、また前を向いた。

どこに行きたいか、と誠に聞かれ
何故あんな妙な事を言ってしまったのか、龍也は自分でも良く分かっていない。
茫としているうちに口が勝手に動いてしまったようだ。
しかし、今までそんな所に行ってみたいと思ったことも、また興味を持ったことも無い筈で。
それなのに、何故。
なんとなく決まりが悪く、龍也は口を噤む。
何気なくまた首を逸らせて大きく伸びをした。
パイプ椅子が軋んだ音を立てる。
ふと壁に掛けられたカレンダーに目がいった。
あの青空は、どこに広がっているんだろう。

どうせ暇なんだし、この後どこに行こうか。
誠はそんな事を聞いたつもりだった。
けれど龍也は少し違う捉え方をしたらしい。
単車に注いでいた視線をほんの少し上げ、龍也の後ろ姿を眺める。
誠は先程の龍也の表情を思った。
単車の事を少し後回しにする気になった。
「なー、龍也」
「ん」
龍也は今度は振り返らない。
「何がいるんだっけ」
「何がって」
「オーストラリア。カンガルーぐらいしか思いつかない」
言いながら、誠はあの有袋類の姿を想像してみる。
記憶の細部はあやふやで、想像の中のそれは見上げるほどに大きい。
そんなものが空想の青空の下を飛び跳ねる。
それでも、やっぱり愛らしい顔をしているような気がした。
「カンガルーいいな」
「何が」
「一匹ぐらい欲しい」
「いらねぇよ」
「なかなかいないよ、そんなペット」
「犬猫と同じにすんな」
「あー、なんか条約に引っ掛かる?」
龍也はうんざりした顔を誠に向けた。
「そんなもん無くてもおまえんちに行ってカンガルーがいたら、俺はもう二度と行かねぇからな」
「話振ったの龍也だろー。じゃあ何でオーストラリアよ」
「別にカンガルーが見てぇわけじゃない」
「じゃ、何」
相手をしようとしない龍也に、誠が続ける。
「コアラ?」
「……おまえ、もういいよ」
龍也は呆れたように言って、それから少し笑った。
いつのまにか、また蝉の声が鳴り響いていた。
龍也は何と言おうか思案する。
しかし、やはりしっかりと形のある言葉は浮かびそうにない。
ちらりと誠を見ると、何か楽しげに、龍也が話し出すのを待っている。
視界の隅、壁に掛けられたあの青空が風に翻った。
「俺は、ただ」

その時、入口の辺りで派手な音がした。
「いってぇ!ナッちゃーん、ごめん何か蹴った」
片足をひょこひょこさせて入ってきたのは須王だった。
何かを蹴ったというその音は、明らかに何かを壊した音で
奥にいた夏生が僅かに眉を顰める。
しかし、そういう事には慣れていた。
「後始末しとけよ」
「後でね、後」
須王は片手で夏生に謝る。
苦笑いというには随分と陽気が勝った様子で、須王は買ってきた煙草を夏生に渡すと、
自分も新しいのを銜え、改めて真嶋商会にいる面子を見回した。
「で?」
「で、って何が」
「あれ、何か笑える話してたんじゃねーの?ナッちゃんがウケてんだけど」
確かに、夏生は笑っていた。
指で額の辺りを押さえていたが、口元には笑みが浮かんでいる。
「どうしたん?ナッちゃん」
誠がその顔を覗き込む。
夏生はどうにか笑いを噛み殺して、隣にいる誠に
「おまえ変」
言いきった。
誠が首を傾げるのに構わず、今度は龍也を指差し
「あと、おまえも変」
龍也を憮然とさせる。
「おまえら二人、変。おまえらが真剣にカンガルーの話すんのは、絶対おかしい」
「なぁんだ、ナッちゃん話しっかり聞いてたんだ」
「俺の隣で喋ってたら嫌でも聞こえるだろ」
そんな遣り取りを眺めていた須王が訝しそうに聞いた。
「……おまえら、何の話してたんだ?」
「ん、どこ行きたいかって話。なあ、龍也?」
龍也は俺に聞くなと言うように背中を向けた。
「ふぅん、行きたいとこかー」
須王は思いを巡らせるようにし、それからまた口を開く。
「じゃあ、オーストラリア」
瞬間、誠は吹き出したが直ぐに素知らぬ振りをした。
龍也は龍也で妙な顔はしたが、何も言う気になれない。
夏生は、一人遠慮なく笑っていた。
「……須王」
ほんの数秒堪えた後、誠が聞いた。
「聞いていい?何でそうなるの」
「住むんなら暑い国がいいだろ。そっちの方が俺に合ってる気がすんだよ」
「あー、熱い人だからねえ」
「暑苦しい」
ぼそりと付け加えた龍也の背中を、須王は笑顔で叩いた。







「ただいまー」

真嶋商会の作業場を覗いた真里は、そう言った後で間違いに気付き、後ろにいる秋生を見た。
「なんか、ただいまって言っちゃうんだよね。アッちゃんち来ると」
「ガキの頃からここで遊んでるしな」
照れくさそうな真里に秋生も笑う。
「あ、でも良かった。誰もいないよ」
真嶋商会はひっそりしていた。
夏生達が出ていったのと、学校帰りの自分達が来たのが、殆ど入れ違えだったということを真里は知らない。
真里は床に倒れていたパイプ椅子を直し、鞄を置いた。
「なんかさ、朝より中が荒れてる気がする」
「あの二人だろ」
秋生はそこらを簡単に片付け始めていた。
おそらく夏生達は何か食べにいったんだろう。
どうせそのうち帰ってくるだろうから、真面目に片付ける気にはならない。
それでも、秋生は手際良く事を済ませていく。
真里はそんな姿を眺め、
「アッちゃん、俺は何しようか?」
うきうきと秋生の返事を待つ。
それはまるで、新しい遊びをしたがっているようだった。
「マー坊は……ちょっと座ってろ」
秋生は、真里が得意なのは散らかす方であることを良く分かっていた。
真里は大人しくパイプ椅子に腰掛ける。
すると視界の隅にカレンダーが入った。
「アッちゃん、学校いつ休みになるって言ってたっけ」
「来週の火曜」
「あれ?水曜だと思ってた。じゃあ23日だね」
頭の上、蝉の声がしきりと降り注ぐ、窓の向こうの空は青い。
その明るさに思わず目を細めてしまうけれど。
壁に掛けられた四角い空は、まるで違う青なのだ。
「……じゃあさ、その日どこか行こうよ。きっと晴れるからさ」
きっとと言う真里は、不思議と確信していた。
秋生は真里が何故そう言いきるのか分からなかった。
けれど、ただ小さく笑って頷く。
「どこ行きたいんだ?」
真里の答えは、満面の笑顔だった。


























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たぶん、エアーズロックかグランドキャニオン。
後者は思いきり国が違いますが。

キリ番18000を踏まれたチイさんからのリクエストSS。
六代目爆音小僧で「みんながワイワイほのぼのしている話」でした。
リクありがとうございました!!

ほのぼの、ですかねえ……?
個人的に、爆音の中でのツッコミ経路は
夏生→誠→龍也→須王、の順だと思っています。


もう帰るよ。