どうしていつもそんな目をしているのか、ようやく理解した。
『 天敵 』
そのFXは一台きりで夜を走り抜ける。
引き連れるのは闇を食い散らかして轟き渡る排気音。
何事かと顔を上げる人々の、不躾な畏怖と侮蔑の眼差しを歯牙にも掛けずに駆抜ける様は、無感情な白色光線のようだ。
街路灯の光が一瞬、FXに艶やかな輝きを与える。
白い特攻服が翻り、闇の中に“外道”の文字が浮かんで消えた。
その名を同じく背負う姿はどこにもない。
秀人は一人、真っ直ぐに前を睨んで走っていた。
灰色の街路灯に照らされるアスファルトや、視界の両側をだらだらと取り囲む街は
硬質の瞳の表面に像を結ばないまま色の無い影のように流れ去っていく。
白線だけがどこまでも先へ先へと伸びていた。
ライトの光が届かないその先を、淀んだ吹き溜まりの闇を、見通すことが出来ずに秀人はほんの少しだけ顔を顰めた。
揺らぐ事の無いように強張らせた心を、あの泣きそうな表情が掠める。
無性に煙草が吸いたくなった。
そう思った筈なのにアクセルを開けている。
視界は刹那的に加速し、全てはただ濃厚な闇が広がるだけ。
そしてまた、あの顔を思い出す。
外道が爆音小僧と抗争しないようにと必死に訴える、友人の顔を。
爆音小僧は、外道に喧嘩を売った。
それも最悪の形で。
昨日、爆音と朧童幽霊が揉めている所に偶然居合せた外道は手を貸そうとしていた。
その手を払ったのは、爆音の方だ。
外道は売られた喧嘩は必ず買う。たとえどんな形であっても。
それが、外道が外道としてあるために必要なものであり、矜持でもある。
外道と爆音が抗争する御膳立ては完璧過ぎるほど揃っていた。
真里の事は正直、面白い奴だと思う。
もっと別の形で決着を付けたかった、とも。
しかしそう思った所で今更どうなるだろう。
秀人は今、真里を探すため一人で横浜の街を走っていた。
見つけたら、その場で潰すだろう。
誰の目から見ても明かな結末をこの腕で作り上げるために。
そんな事ぐらいしか。
この抗争を出来るだけ早く終わらせるために、秀人はそんな事ぐらいしか思いつかなかった。
そうやって凍りつかせた胸の内に、あの悲しげな顔が小さな棘を刺す。
全部終わったら、その時は……
あの時、友に言った言葉がそのまま自分に突きつけられる。
秀人は自分の唇が自嘲的に歪むのを感じた。
全部終わったら、その時はどうしたかったのか。
それすら忘れてしまいそうだ。
そしてまた、胸の内が熱を失っていく。
中天の月の下、FXは孤独な獣のように疾走していく。
吠え立てる排気音に耳を澄まし、街はざわざわと震えている。
嵐を待ち望む子供のように暗闇の中で目を光らせて。
白刃の上で危うい均衡を保ってきたものが、今まさに崩れようとしていく様を見逃さないように。
今日こそ、何かが起こる。
何もかも終わる、と。
誰も彼もが吹き溜まりの闇に顔を隠し、熱気を孕んで囁き交わす。
災厄の訪れを待つ街を眺めながら、月の顔は青白かった。
赤い反射光が眼球を差している。
アイドリングするFXの音に混じって響く携帯の着信音にようやく気付き、秀人はふと顔を上げた。
赤信号が頭の上にあった。
そして火のついてない煙草を銜えている自分に気付いた。
秀人は舌打してジッポを取り出そうとした。
ぼんやりしている間に無意識にでもFXを止めてしまった自分に少し苛立つ。
頭の上にある赤い光が腹の底にある逡巡を見せつけているようだ。
携帯はまだ鳴っている。
たぶん吉岡だろう。
そろそろ何も言わずに一人で出た事に気付いた頃だ。
悪いと思いつつ、携帯に出る気は無い。
ジッポが見つからない。忘れたのかもしれない。耳の奥にまで着信音が木霊する。指先に触れたのはジッポでなく。
携帯を切った。
その瞬間、秀人は不思議な静寂を感じた。
確かにFXは相変わらず低い唸りで闇を震わせている。
しかしまるで耳を塞がれたように、全ての音が遠ざかっていく。
頭の上にあった赤い光が消えた。
何かに引き寄せられるように視線が上を向く。
信号機の赤い光は消え、そして。
暗い闇だけが残った。
壊れている。
そう思った瞬間、光の無い闇に浮かぶ大きな月に目を奪われた。
冷たく、青く澄んだ光。
それが冴々と思考を割り、脳味噌の奥から何かを無理やり引き摺り出そうとする。
眩暈のような既視感に駆られ、秀人は視線を前に戻した。
すると、小さく闇が震えた。
その音が何なのか、秀人はすぐに分かったような気がした。
それは闇を食い千切り、跪かせ、支配者の顔をして現れる。
その事を知っている。
身体に流れる血の一滴までもがその事を理解しているという不思議な確信が秀人にはあった。
だから、対向車線から現れたもう一台のFXが交差点で軌道を変え、秀人のすぐ目の前に止まった時、
その映像が現実のものなのか、それとも強烈な既視感が呼び起こす過去のものなのか、一瞬判断がつかなかった。
エンジンが切られる。
青白い沈黙が世界を包む。
FXから降りたソイツは緩慢な動作で煙草を銜えた。
冷たい色をした瞳が、秀人を見据えて微笑する。
「よぉ……」
上機嫌に紫煙を燻らせる緋咲は、長い付き合いの友人と再会したような親しげな口振で、いつも通り悪意を囁いた。
「しけた面して何してんだ?秀人クン」
「……緋咲」
名を呼ばれ、切れ長の双眸がきゅうと細められる。
緋咲は悠然と歩みを進めると、秀人まであと一歩の所で足を止めた。
他人を見下ろす時の癖なのか、小首を傾げるように覗きこんでくる瞳が物騒な誘いをしていた。
秀人はエンジンを切ろうとした。
しかし、その手は止まる。
秀人は銜えていた煙草を吐き捨てると顔を顰めた。
「緋咲、おまえこそ一人で何やってんだ。腹の傷まだ塞がった訳じゃねぇんだろ。
そんな奴がうろうろしてんじゃねぇよ。俺は忙しいんだ」
酷く不機嫌な声だと、秀人は自分でも思った。
目の前を塞ぐほどの既視感が頭を殴りつけている。
身体の奥から込上げてくる暗い熱が血液の中に混じりこみ、脳まで狂わせそうだ。
今すぐ、堅く握った拳を嘲笑う緋咲に叩きこみたい。
思考が白く焼き切れるほどの殴り合いをしたい、いつも通りに。
理屈も無く切迫する感情は欲求というより要求だ。
しかし、秀人はそれを冷めた胸の内でねじ伏せようとした。
「どけよ」
言い捨てる声は固い。
動かない秀人の手を、闇を睥睨する眼差しを見下ろし、緋咲は細く紫煙を吐いた。
微かに甘いそれは嘲笑うように秀人の顔の前を流れていく。
「バカか、てめぇは」
凍りついた湖面のような瞳の底で剣呑な輝きが揺れた。
瞬間、予備動作も無く緋咲は秀人を殴った。
衝撃に視界が歪むのを感じながら、秀人は緋咲がそれでも大分気の無い殴り方をしたという事に気付いていた。
口の中に血が滲む。
馴染みのある味が舌に絡み、身体の奥でまた熱が生まれようとする。
「どうでもいいんだよ」
顔を伏せた頭の上に緋咲の声が降ってくる。
緋咲は、殴ろうとしない。
「俺の傷がどうだろうが、てめぇの都合が何だろうが、そんな事は全部どうでもいいんだよ」
その声は揺らぎの無い確信を静かに突きつけ、同意を求めていた。
秀人はゆっくりと顔を上げる。
月が、緋咲の上にあった。
「……うるせぇぞ、緋咲」
FXのエンジンを切る。
緋咲が微かに笑うのを聞いたような気がした。
「どうでもいいなら、ガタガタ言ってねぇでさっさと殴れよ」
冬の湖のような眼差しと、月の、透き通る冷たさ。
胸の内が青白く澄み渡っていく。
水面からギラギラと光り輝く波が消え、底に沈んでいたものが思い掛けず姿を見せるように
一つの感情が生まれ出る。
秀人はFXから降り、唇の端を少し上げた。
「あんまりうるせぇと残ってる方の拳も潰しちまうぞ」
背筋を粟立たせるようなその声に、緋咲も唇を吊り上げた。
「やれよ、ホラ」
事も無げに言って青白い右手を秀人に見せつけると、その指で唇に銜えた煙草を摘み取り、弾き飛ばした。
「けど、やれなかったらてめぇの両腕引き千切ってやるからな」
切れ長の双眸に楽しげな悪意が煌いた。
夜の底、二人は対峙する。
月明かりでその影は青白く、まるで鏡合わせのようだった。
ぼんやりと、理解し始めている。
秀人はそう感じていた。
薙ぎ払うような裏拳を躱した瞬間、死角から衝撃が来る。
受け損ねた腕に走る痺れを無視しどうやってやり返そうかと考える一瞬間、
脳味噌の片隅では漠としてまったく違う事に思いを馳せている。
どうして緋咲がここにいるのか。
この瞬間、この場にいなければならないのか。そして、どうして緋咲でなくてはならないのか。
それら全てが一つの意味を持って組み立てられていく。
天敵という言葉の意味を、ようやく理解したような気がする。
そんな事を考えている内に、片目に血が入った。
残った目で緋咲を眺める。
見えない目でも緋咲を眺めている。
冷たい色をした緋咲の目。
その目が今、何を見ているのか理解している。
血の滲んだ唇が形作るほんの僅かな微笑が、何を求めているのか知っている。
その眼差しも、憎悪も、何もかも全て俺だけに向けられているんだ。
秀人は背筋がぞくりとするのを感じた。
緋咲の思考を支配している。
その確信は血液が沸騰する感覚に食われて透き通り、全身を廻る。
秀人はただ緋咲を見た。
身体中の感覚は全て目の前の事象だけに開かれ、余計なものを切り捨て、澄み渡る。
胸の内にあるのはただ一つの感情。
名づけ得ない衝動。
それが、緋咲の中にもある事を知っていた。
秀人は恍惚として、血塗れの拳を緋咲の鳩尾に叩きこみその身体を折り曲げさせた。
不意に強い光が辺りを包んだ。
秀人は緩慢にそちらを向こうして、首が軋み思わず顔を顰めた。
「いってぇ……」
緋咲は馬鹿にしたように笑うと、近付いてくる光の群に視線を向けた。
目を射るそれは単車のライトであり、幾重に吠える排気音が夜気をびりびり震わせる。
外道。
近付いてる集団の正体に気付いても、緋咲は気怠るそうに煙草を銜えるだけだった。
突出していた一台が二人のいる交差点に突っ込んでくる。
サングラスをかけた顔が秀人を見て驚きと安堵を同時に浮かべた。
「秀!おまえこんなトコにいたのかよッ。俺はてっきりB突に……」
その顔が、既に喧嘩済みといった様子の秀人と、悠々と紫煙を燻らせる緋咲に気付き、何とも言えない表情になる。
が、秀人は構わずに聞いた。
「吉岡、B突が何だって」
「って、おい秀人!なんでコイツが……?!」
「それはいいから」
「よくねぇだろ!」
「いや 別にいいから。B突がどうしたって」
「いいからって……」
吉岡は戸惑ったまま緋咲の方をちらりと見た。
緋咲は吉岡と秀人の遣り取りを他人事のように眺めるだけだった。
その様子に周りをぐるりと囲んだ外道の間で敵意が走るが、少しも意に介さない。
「吉岡」
秀人に催促され、仕方なく吉岡は口を開いた。
「爆音がB突に集まってるらしい。魍魎の武丸と朧童幽霊の榊もいるらしいんだけどよ、訳分かんねぇ。
入口をAJSが封鎖してるって話もあるから、多分中にいんのはそれだけじゃねぇんだろ。
兎に角、嘘なんだか本当なんだか分からねぇ情報ばっかで滅茶苦茶なんだよ」
「……B突か」
秀人は呟きながら煙草を銜えた。ジッポを探るがやはり見つからない。
「何だよ……緋咲、火貸して」
柳眉を少し顰めた緋咲は、それには答えないまま、きゅうと細めた瞳に冷やかな嘲弄を浮かべた。
「てめぇ爆音と揉めてんのか?」
「うるせぇな」
「相変わらず阿呆だな、てめぇは」
「あー、聞きたくねぇよ。ちっと黙れ」
秀人は緋咲の肩を掴んで引き寄せると、赤い火を燻らせている緋咲の煙草に自分のそれを押し付けた。
暫くの間、緋咲の睫毛が青白い影を頬に落しているのを眺める。
それはゆっくりと揺れ、硝子玉のような眼球に反射する仄かな光を震えさせたかと思うと、
緋咲はそのまま紫煙を秀人に吐き掛けた。
肩を掴んでいる手をぞんざいに払い除けると、唐突に吉岡の方を向き直る。
「おい ヒゲ」
呆気に取られて二人を眺めていた吉岡は、突然冷たい双眸に射貫かれ思わず半歩退いた。
「な、なんだよ」
「他には」
「あ?」
「他にB突に集まってる奴は」
その問いに答える義理は別に無い筈だが、ついその眼差しに飲まれてしまう。
「……だから、分かんねぇんだよ。AJSの総長を見たとか、極悪蝶の二代目がいたとか嘘みてぇな話ばっかで」
「他は」
「知らねぇよ」
「ふぅん……」
使えねぇ奴、と呟いて緋咲は思案顔になった。
秀人はFXのエンジンを掛け、そんな緋咲を見やる。
「何だよ?緋咲も何かあんのか」
「別に」
緋咲は煙草を踏み消して自分のFXに跨った。
秀人が目付きで促すと、ほんの少しだけ唇を吊り上げて言う。
「そういう訳分かんねぇ状況になると、何故かいっつも巻き込まれてる奴がいんだろ」
秀人は直に得心したが、
「あぁ……まぁな」
心の奥にある引っ掛かりの御陰で僅かに言淀んでしまった。
すると、微かな笑いが耳朶をくすぐる。
緋咲がFXのエンジンを掛けたのでそれは直に聞こえなくなった。
二台のFXが夜闇を震わせる中、秀人が問おうとすると機先を制して緋咲が言った。
「だから頭悪いって言うんだよ、てめぇは」
冴え渡る月光は、やはり緋咲の上にある。
秀人はその青白い横顔をじっと眺めた。
胸の内に刺さる小さな棘が、色を失っていくような気がした。
やがて秀人は前を向き直り、延々と続く白線の向こう側に広がる闇を見据える。
「まぁ、どうにかなるか」
独り言のようなそれは重なる排気音の中に消え、緋咲まで届かず。
緋咲はただ、微笑の欠片を唇に浮かべるだけだった。
漆黒の夜に高く、月の顔は青白い。
凍える光を浴びて、鏡合わせのような二台は真っ直ぐに駆抜けていった。
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……なんで27巻、この二人は一緒に出てるんでしょうか。
何やってたんでしょうか。
ページの都合だと解釈するのが適当な気がしますが、それだとアレなんでこんなん書いてみました。
あくまで、僕の個人的な見解ですが。
さー、もう帰ろうかな。