夜中、突然目を覚ます
呼吸が止まった錯覚に喉を抑えて喘ぐ
光の決して見えない闇の下を無様に苦しみ悶えながら
見開いた眼窩が熱くなってくるのを堪えきれずに
僕はまた泣く
君を思って
『にくしみ』
夜が明けるほんの少し前の、薄明るい空の下。
拓はベイブリッジに向かって疾駆していた。
霧混じりの仄蒼い街はひっそりと静まりかえり、
まだ頑迷に居座ろうとする夜影の中へ単車の音は食われていく。
視界を優しく覆おうとする霧を貫いて、拓の目はただ前を向いていた。
眼窩の熱はとっくにひいている。
胸の奥から引き千切られるような苦しみも大分薄れ
ただ漠とした哀しみが澱のように沈んでいく。
だんだんと身体の中で質量を増していくそれは
薄闇の霧のように絡みつき、指先から力を奪おうとする。
拓は一度大きく息を吸いこんだ。
目は閉じてしまった。
グリップに掛けた指を外してしまいたかった。
震える手で顔を覆い、大きく胸をそらせ、高らかに叫びたかった。
君の名を
呼んでみたかった。
小さく息をつくと拓は目を開けた。
深く垂れこめた霧は当分晴れてくれそうにない。
漂う仄白い影。
そこに何かを見てしまいそうだ。
いや、何かが見えることを期待しているんだ。
夢でも幻でもいい。
前を疾駆するあの後姿にもう一度会えるなら。
何でもいいんだ。
いつか誰かが言っていた。
弔いは死者のためにするんじゃない。
その人はもう死んでしまったんだと、きちんと自分に教えるために
生きてる人間がすることだって。
そうしなければ信じられないんだ。
その人がもういないことを。
もういないんだよ?
途端に息が詰まる。
胸が引き千切れる。
涙が出る。
モウイナインダ
僕の弔いは、当分できそうもない。
「…あ」
ベイブリッジについた時、拓は先客を見つけて小さく声を洩らした。
前に誰かが置いていった白い花束を、紫煙を燻らせながらぼんやり眺めている、
その姿になんとなく不思議な気分になる。
ここで緋咲に会うのは二回目だ。
あのタイマンの日とは逆で、今度は僕が緋咲を眺めている。
ただ酷く静かに、少し古くなった白い花を見下ろしている、その瞳に
喉の奥から哀しみに似たものがせり上がってくる。
よかった。
こんな日に会ったのがこの人で。
この人じゃなければ、僕はたぶん。
不意に緋咲が顔を上げ、拓の方を向いた。
その瞳に、憎悪が満ち溢れていた。
魂の奥底まで抉って凍りつかせるような眼差しが、何か言おうとした拓を止めた。
叩きつけられる憎悪に眩暈がしそうなのに
身体の芯まで凍りついて動けない。
まるで初めて会った時のように、冷たい瞳。
僕は勘違いをしていた。
あの日、あのタイマンの時、僕は確かに
緋咲の中に僕と同じものを見たんだ。
悲しくて悲しくて抑えこもうとしても内側から食い千切られるような痛みを。
どうしようもなくて逃げられる筈もなくてただ辛すぎて、だから
悲しいケンカをした僕は、僕等は確かに何かを感じ合えた
そう思っていたのに。
目の前に立つ、この人の瞳は何もかも冷たい。
路傍の石ころにだってこんな目はきっとしない。
声を掛けることも近づくことも僕の存在も何もかも、冷たい瞳が拒絶している。
緋咲まではほんの数mなのに、間には薄暗い霧しか無い筈なのに、
その目に断絶される。
ああ、何なんだろう。
何だか酷く悔しい。
「……てめぇが何でここに来るんだ……」
突き放すみたいな、声だ。
何でそんな分かりきったこと聞くかな。
拓は真っ直ぐに緋咲と視線を合わせた。
「……きっと君と同じ理由だと思う」
霧の向こうが冷たく笑う。
「同じ?……俺とてめぇが……?」
緋咲は一層可笑しそうに笑い、煙草を踏み消した。
「俺はただ“ついで”に寄っただけだ……それ以外の何でもねぇよ……。
勝手にてめぇと一緒にすんな」
「僕は」
酷薄な唇が「ついで」と言った時から、僕はきっとキレていた。
「……僕は眠っていると突然目が覚めるんだ。そうするともうダメなんだ。
眠ってなんかいられなくなるんだ。
苦しくて苦しくてじっとなんかしていられないんだ。
…その度にココに来るよ。
変だね?本当は僕はここ好きじゃないんだ……だってここに来る度に、
僕は時貞君が死んでしまったことを知らなくちゃいけないんだ。
何度でも何度でも僕はね、確認しなくちゃいけない……でもね、
それでも彼に会える気がするんだよ」
緋咲は何も言わなかった。
冷たい色の眼差しが一瞬伏せられて、白い花束にいく。
「会いたいよ。どうしても会いたいんだ。
だってね、怖いんだよ。
怖くて怖くて悲しくて仕方がないんだ。
二度と会えない事がこんなに恐いことだなんてそんなの知らなかったッ。
いないことにいつか慣れるなんてそんなの嘘だ、忘れるなんて嘘だッ
……無理だよ、そんなの。
だから僕はここに来るんだ…」
「……バカみてー……こんなところ何度来ても、死んだ奴に会える訳ねぇだろ…」
川風に乗って白い花弁が高く舞い上がる。
緋咲の声は酷く掠れていた。
「知ってるよ……知ってるから」
吹き散らかされる花弁を追う瞳は拓を見ようとしない。
「一人でいると、涙が止まらないんだ。
……どうして時貞君は死ななくちゃいけなかったんだろうと思って」
「死ぬのに理由なんざ無ぇよ」
そう言いきった緋咲は、川風に踊る白い薄片を静かに掴み取り、そっと放した。
緩やかな風に乗りそれは僕の顔を掠めていく。
「勝手にただ死ぬだけだ」
口を開きかけ僕は止めた。
見上げた、冷たい色の、瞳が。
緋咲は冷笑を浮かべようとして、上手くいかずに唇を噛み締めた。
それはほんの一瞬泣き顔のように見えて
僕の眼窩が熱くなる。
しまったと思った瞬間に左の目から涙が零れた。
後から後から止まる事無く溢れていく、涙。
緋咲の姿が霞みそうになる。
「……何でてめぇが泣くんだよ……」
その声は掠れて、やっぱり冷たくて。
「……バカみてぇ……」
どっちがだよ。
そんな目をしてたって、そんな冷たい声をしてたって
さっきから泣いてるくせに。
結局僕と同じで、彼がいない事に納得できてないくせに。
どう仕様もないって分かっていても、ここに来てしまったくせに。
涙が止まらない。
これは僕が泣いているんじゃない。
泣きたくても泣けやしないこの人のために、僕の目が勝手に泣いてるんだ。
ああ、何か本当にバカみたいだ。
バカみたいに悲しくて、辛くて涙が止まらない。
ちっとも止まろうとしない涙に諦めて
もう一度目を開けると、緋咲はもういなかった。
霞む目を大きく見開いても、川風に乗った花弁が舞い踊っているだけ。
ようやく夜は明初めて、霧が薄くなっていく空が青い。
君を思って泣いてしまう僕と
泣きもしない緋咲
哀しいよ、どうしたって。
拓は涙を拭き、古くなった花束を抱え上げた。
僕らの弔いは、当分できそうもない。
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にくしみ。
人が死ぬと色んなことがどうにもならなくなって、困ります。
もう帰る。