『 a bad ending 』







こめかみにドライバーを突っ込まれた気分だ。
相賀は病室に一歩足を踏み入れた状態で硬直した。
そこには誰もいなかった。
空のベッドを見、やっぱりなと土屋が呟く。
乱れたシーツの上に仄赤い夕闇が影を落す。
病室はただ静かに夜の訪れを待ち、そこにいる筈の人間が何処に行ったのか、語る言葉を持たない。
廊下から聞こえる誰かの足音が小さくなっていく。
「やっぱり、て何だよ。やっぱりだったらどーすんだよ。緋咲さん、いねーじゃねぇか」
憮然とした相賀は土屋を睨み付けた。
土屋は答えぬまま空のベッドに腰を降ろし、煙草を銜える。
窓を背にしたその顔を黄昏が覆い、どんな表情をしているのか相賀には分からない。
分からないから、苛々する。
ジッポの音がやたら耳に付いた。
「下にあの人の単車無かっただろ。だから、いねぇとは思ってた」
紫煙の合間に土屋は淡々と話す。
「ただ、昨日手術したばかりなのに、まさかもういなくなるとは思ってなかったけどな」
表情の見えない顔が唇を歪めた気配がする。
相賀はかっとなった。
麓沙亜鵺と外道が代替りしてから初めて衝突したあの日、緋咲の左拳は完全に壊れた。
砕けた骨の代わりにボルトとプレートを入れる手術が丁度昨日あったばかり。
それなのに緋咲はいなくなった。
使えぬ筈の左手を使い、単車に乗って何処かに消えた。
相賀の中で赤く鋭いものが膨れ上がる。
病室の小さく開けられた窓、吹き込んだ風の僅かな動きに肌が粟立った。
「土屋」
相賀は嗄れた声を絞り出す。
「おまえさ、少しは心配とかしねぇの」
けれど言った直後に後悔した。
黄昏の薄闇の中、爛と光る目が睨んでいた。
「……悪ぃ」
相賀は口の中で小さく謝った。

「また携帯切ってんな、あの人」
土屋は自分の携帯を仕舞い、相賀を見上げた。
大きな丸い目が気忙しげに動いている。
不安なんだろう。
今の相賀よりも捨てられた犬の方が余程増しな顔をしている。
そんな事を考えている土屋も、相賀の事を言えるほど平静でもなかったが。
内に籠めた鈍い焦燥を口に出してしまえば止めどなく溢れ出るだろう。
だから、それを表には出さなかった。
或いは焦燥の半分ほどは相賀が持っていっているのかもしれなかった。
その分頭の何処かが冷めている。
「あの人が、病院なんかで大人しくしてるかよ」
独り言のような呟きは自分に言い聞かせるためでもある。
そして、そうやって冷めていることに自分で苛立つ。
上手く飲み干せない、移ろい易い感情が土屋の顔を歪ませた。
「……だ」
相賀が何か言った。
「どうした」
丸い目は足許をじっと見詰め、思いつめたような顔をする。
「何か、嫌だ」
「何が」
「……何か」
「意味分かんねぇよ」
日頃ずばずば物を言う相賀が口篭もった。
その躊躇いが土屋の中にも漠とした陰を忍ばせた。
「相賀、何だよ」
相賀は床から視線を上げないまま、聞き取り難い声で言った。
――緋咲さん、ちっと普通じゃなかっただろ。
「相賀」
「俺だって何て言ったらいいかなんて分かんねぇよ!けど、違うんだよ……あの人。
左拳やっちまった時からずっと何か様子おかしいんだよ。
どこがどう違うなんて、俺頭悪いから上手く言えねぇけど……でも」
戸惑いを隠さない相賀の目が、伝えるべき言葉を探して土屋に向けられる。
漠とした不安がじわじわと土屋の中に広がっていく。
「だから……何か、嫌な感じがする」
土屋は答えなかった。

いつか二人の曖昧な輪郭は無言の夜闇に溶けていた。





















闇に慣れ過ぎて、盲いてしまったのかもしれない。
明かりの無い部屋の窓には厚いカーテン。
僅かに零れ入るのは曙光か月影か。
光の鈍い瞳には分からない。
視界はあまりに曖昧で、緋咲はもう随分前から物を見ることを放棄していた。
時折洩れる自分の呻きも聞こえているのか怪しい。
酷薄な唇を割って出る吐息は熱を孕み掠れていた。
噛み殺せなかった苦鳴が闇を小さく震わせて消える。
視覚を閉ざされ、聴覚を断ってしまえば
闇は肌をひたりと包み込み、鋭敏な神経を剥き出しにして。
後に残るのは苦痛だけ。
混じりけのない研ぎ澄まされた痛みだけが絶え間無く意識を揺さぶる。
その痛みは左手で生まれている筈だった。
しかし骨を軋ませる痛みはもう全身を巡り、身体中が炎で焼かれているように熱い。
それ以外の感覚は無かった。
だから自分の身体が一体どこにあるのか分からない。
首は多分ここに有るのだろうけれど。
腕は、脚は。
闇の中、其処彼処に転がっているに違いない。
床に散乱した四肢がそれぞれ痛みを食って生きている。
そんな妄想は、痛みと痛みの狭間、刹那に生じたものだから
容易く消えていった。
痛みしか分からない不快な闇は海のように深く
生起しては消散するだけの想念は水泡のように頼りなかった。
しかし。
見えぬ筈の目は確かに何かを見ていた。
緋咲がそうと気付く前から
或は初めて会った時からずっと、それを見据えていたのかもしれない。
きっと、網膜に焼き付いてしまっているんだろう。
あの漆黒の双眸が。
眼差し自体が質量を持っているようなそれが
緋咲の凍てついた湖のような瞳の底にしっかりと根を下してしまったのかもしれない。
――秀人
胸の内で名を吐き捨てる。
途端に、左手の神経に杭が打ち込まれる。
盲しいた目は更に眩み、ただその漆黒の双眸だけが益々明瞭となる。
繰り言のように名前を重ねた。
痛みが全身を揺さぶった。
それはある種の核となる。
脆く儚かった想念が怨嗟と憎悪を食らってゆっくりと少しずつ確かな形を練り上げていく。
だから、何度でもその名を呟いて
その眼差しを痛みと共に刻み込み、消えない傷を作っていく。
指先の細胞の一片さえ憎悪に満ち溢れるように。
忘れ得ない傷を刻んでいく。
そうやって吹き出た血溜まりに立ち、緋咲はようやく目を開けて世界を見る方法を思い出した。

明かりの無い部屋に零れ入るのは月影。
何もかも茫として青白く沈んでいる。
仰ぎ見れば、そこはまるで暗い水底の空のようだ。
また目を閉じ掛けた緋咲は、束の間そんな事を思っていた。





















足許に水が広がっている。
たっぷりと湛えられた碧水は睡蓮の葉で覆われていた。
まだ小さな固い蕾が揺れ、柔らかに湿った風が吹き抜ける。
濡れ光る緑青の葉。
それらの合間、不思議な水面を、銀の波紋は緩やかに走っていく。
最後の軌跡は静かに震え、水底に沈んでいった。
水面は再び凪ぐ。
空を映しこむ水鏡を覗きこめば、底は黒々として何が沈んでいるのか分からない。
見えるのは、淡い水面に浮かぶ自分の影。
――違う。
水鏡を挟んで向かい合うそれは自分ではなくて。
暗い水の底、冷たく凝った青白い影。
切れ長の双眸がきゅうと細められた。
その瞳には侮蔑と敵意が湛えられている。
透徹するほど鋭い眼差しが意識の脆い表皮を切り裂いて、ただその瞳へと全ての感覚を集中させた。
身体の奥、暗い場所から熱を孕んだ何かが迫り上がってくる。
喉が焼けつきそうだ。
けれどこの渇きは、多分喉を潤しても治まらないだろう。
ぼんやりした頭の何処か片隅で、そんな事を確信した。
右手を水面に伸ばす。
水鏡に映る影の左手も動く。
手首から先が真っ赤だ。
触れた指先は、冷たい。



終業のベルが鳴ったのと、机の中で携帯が盛大な音を立てたのは同時だった。
机に伏していた秀人はぼんやりと目を開ける。
ガタガタと机を揺さぶっている携帯を手探りで取り出してみると、吉岡からだった。
秀人の目はまた閉じられそうになる。
――もしもし」
「なんだぁ?寝てたのか、秀」
「……すげぇ寝てた」
吉岡は遠慮無く笑った。
そんな声を聞きながら、秀人はふと光を感じた。
顔を上げる。
淡い光が動いていた。
教室いっぱいに広がって、溶け合うような光の幾筋。
視線を窓に転じれば、中庭にはコンクリートで作られた池がある。
味気ない、四角い囲いの中、湛えられた水が昼の光を反射していた。
水面に緑青色の葉が濡れ輝いている。
「……吉岡」
「あん?どうした」
「あいつ、何ていったっけ」
「誰の事だ」
「この間の、横須賀の……」


漣立つ碧水に、睡蓮が揺らいだ。





























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一人、ちっとも麻酔が効いてない人がいますね。アイタタタ。
そりゃ普通じゃないですよ。
まあ、それはともかく。
緋咲さんにとって秀人クンというのは、もう運命的バッドエンドの象徴と言っていいんじゃないかと。
第一印象はお互いに最悪ですしねー。
第二印象あたりもまだ悪いですね。
第三印象もきっと悪いですね。


それに反してやっぱり麓沙亜鵺の三人は仲良しでお願いします。



さー、帰っちゃうぞ。