人や街は、またいつもの日々を繰り返しているようでした。
けれども、領主様は少々違っておりました。
なんだか上の空でいらっしゃることが多くなり、窓の外を眺めては、
どことも知れぬ彼方をお想いになっているようでした。
領主様はどうされたのだろう。
近習は心配し、臣下らは首を傾げましたが、
お尋ねしても、うるさそうにあしらわれるだけなのです。

そして、ある日突然、領主様はお城を去ってしまいました。

街の北に広がる森の中、領主様の祖先が天文台として造った、古い石の塔がございます。
そこに一人きりで引き籠ってしまわれました。
お城の者達は皆びっくりして、どうかお戻りくださいとお願いしに行きましたけれど、
塔の入り口は、煉瓦と漆喰でしっかりと塞がれておりました。
領主様が御自分でなさったのです。
こうなりますと、壊して入るわけにもいきません。
高い石の塔の上に見える窓が、唯一の入り口です。
中にいる領主様が縄ばしごを下ろしてくださると良いのですが、
お城に戻ることを進言しようとする者達には、決してお会いになろうとしません。
領主としての務めは、お城の高官の一人である従兄弟を代理とし、
僅かな近習が時折身の回りのお世話をすることを許す他は、
まるで隠者のように閉じ籠ってしまわれたのです。

いったい領主様はどうなさったのだろう。
どこかお加減が悪いのだろうか。
あの吸血鬼!
きっとあれが不吉なことをもたらしたに違いない。

人々はそのように噂しました。




しかし、森の中、木々よりも高い石の塔の、最上階。
お城のお部屋よりも小さくて、さらにそこかしこ本などうず高く積んで、
領主様は、うたたねしておりました。
机に広げているのは、『原論』の第九巻。
寝台がわりの長椅子の傍らに、『博物誌』の全巻。
その上に置かれた、歯車式の太陽系儀。 棚の中の鳥のいない鳥籠。
森羅万象の落ち葉の中、うもれるようにねむる領主様の、
夢は、遠い世界を旅しておりました。





御両親を早くに亡くされて以来、領主様は領主様でした。
そうなることを願ったわけではありませんし、そうありたいと望んでいるわけでもありません。
しかし、領主だろうと鍛冶屋の職人だろうと、人は凡そ、そうあるものは、そうあるしかないのだ、
と考えていらっしゃいました。
ですから、本当はお城を出て、色んな土地を旅してみたかったなんて、
誰にも明かしたことはございません。
世界には、様々な国や文化があります。
他の土地では見られない、独自の発展を遂げたものも多くあります。
そこには、領主様や街の人々もまだ知らない、人の助けとなる知識や技術が、きっとあるのです。
それらを学び、多くの人々のために役立てたい。

それは、領主様の、叶えられることのない夢でした。

だからこそ、あの旅人のことが、とてもうらやましくて、うらやましくて、
暇乞いをしてきた時、またいつか、必ずこの街を訪れるように、約束させたのです。


領民に害をなす怪物を退治するのは、領主の務め。
傷付けられた者がいる以上、領主様は己の責務を果たさねばなりませんし、
それが間違いであるとは思いません。

しかし、もしもあの吸血鬼が、最初から人を襲う気で街に入り込んでいたのなら、
どうしてあの日まで犠牲者が一人も出ていなかったのでしょう。
街には獲物などより取り見取りだったはずです。

もしかしたら、あの怪物は、
本当に、旅をしていたのでしょうか。
街から街へ、国から国へ。
街道を、原野を進み、峠を越えて、港では風を待ち、旅を。
まるで人のように。

そんなおかしな怪物が、いるのなら。


酔っていた。
もしもその言葉が真実だとしたら、
あの宴で正体が現れるほど酔っ払ったりしなければ、
あんな事件、起こらなかったのでしょうか。
次の朝には、何事もなく街を出、西でも東でも、好きな方角に旅を続け、
そしていつか、気が向けば、またこの街に戻り、異郷の物語など聞かせてくれたのでしょうか。

それはどんなに、喜ばしいことだったでしょう。


けれど、領主様は御自身の手で、旅人を殺してしまいました。
その瞬間、己の業というものを、まざまざと目にしたように思えて、
以来、うつろな鳥籠のように。
お城での華やかな生活を捨て、石の塔に閉じ籠り、
途絶えてしまった旅路を想いながら、ただ書物に囲まれて時を過ごしているのです。




いつか季節は過ぎ、冬が訪れ、
北国は野も山も白く覆われておりました。
領主様が慎ましく暮らしていらっしゃる森も、夜などは殊の外寂しく、
狼の遠吠えが時折聞こえる他は、枝から滑り落ちる雪が、その寂寞を深めていきます。



それは、良く晴れた月の晩のことでした。
月光に貫かれた森は、あらゆるものが鬼火のように青く、凍気は痛いほど張りつめておりました。
塔の一番上のお部屋では、暖炉の埋み火が灰になろうとしていましたが、
領主様は気付かずに、書物を開いたままうたたねをしておりました。
しかし、窓の外で何かが、こつりと小さな音を立てた瞬間、
領主様は静かに目を覚ましました。
音は軽く、こつりとまた。
お城の者達はこんな夜更けに訪れませんし、
森の獣のいたずらにしては、窓のすぐそばで音がしたように思います。
領主様は椅子から立ち上がると、窓辺に近づきました。
鎧戸を開けてみれば、深い瑠璃色の夜空に、月。
その光を浴びて、淡く煌めくように舞うものがあります。
領主様が腕を差し伸べると、影は優雅に弧を描き、その手に宿りました。
るるる、と首を傾げる、あの翠緑の極楽鳥です。

「おーい。」

どこかで聞いたような声が、下から領主様をお呼びしました。
塔の下で誰かが手を振っているようです。

「寒ぃーんですけどー。 入れてもらおうと思ったのにおまえんトコ何だあれー」

領主様は、まず鳥を中に入れてやりますと、
下にいるぶしつけな訪問者に言いました。

「お前も飛んだらどうだ、吸血鬼」
「羽なんかあるように見えんのかよ」

たしかに羽はないようですが、首はついています。
領主様が梯子をおろしてやりますと、登ってきたのは、あの旅人です。
手を貸してやれば、その手を掴んで部屋の中に上がりこんだので、幽霊でもないのでしょう。
お顔を変えずに驚いている領主様をまじまじ眺め、旅人は、にぱっと満足げに笑いました。

「なんだ、元気そうだ」
「それはこちらの台詞だと思うが」
「へェ? 頭がおかしくなって幽閉されたって聞いたから、見に来てやったのに。
 ま、隣の国で聞いた噂だけどな」
「事実誤認だ」

城の主が突然姿を消せば、そのような噂も流れるでしょう。
しかし、領主様は誤認なさっていません。
目の前にいる男の死体が川に投げ捨てられるところまで、あの日確かに見届けたのです。

「あの時私は、お前の首を刎ねた」
「うん」
「何故お前の首はそこにある」

怪物は、事も無げに答えました。

「拾ってもう一回付けたから?」

川を流されてたら、上手い具合に中洲で首を見つけたから、拾って元の位置に戻し、
あとは通りすがりの親切な人に針と糸を借りた。

そう語るのを、むつかしいお顔で聞いていた領主様は、一言。

「丈夫だな」
「風邪とかひいたことないし」

こんな怪物、領主様も初めてです。
知的好奇心を刺激され、領主様は、繋いだというその痕を検分しなければと、
旅人の襟元を隠している布きれを取り去りました。

「おまえなー、もっと優しく扱えよ」

すると、旅人の首には、ぐるりと一回りする線が走っていました。
第四頸椎で切断する、領主様の太刀筋です。
しかし、

「……下手くそ」

領主様は思わずつぶやきました。
何故かというと、太い綿糸を使ったその縫い目は、まるで子供のでたらめなしわざのように、
ギザギザのグチャグチャ、ひどいものだったのです。

「しょーがないだろ」

たしかに、首を身体に縫い付けるなんて、人に頼むわけにはいきません。
怪物は自分一人でやったのでしょう。
領主様は、少しばかり不憫に思えたので、
この男の首を刎ねるのは、もう止してやろうとお考えになりました。
けれど、首は自分の手で直せたかもしれませんが、もしもこの先、両腕を失うようなことがあれば、
この怪物は、いったいどうするのでしょう。
うっかりすれば、そんなことも起こりかねません。
お城での事件を考えると、間が悪いというか、決して用心深い性格であるとは言えないのです。
もしもそんな事態になった時、助けてくれる親切な人はいるのでしょうか。

領主様は、だんだん心配になってきました。
やっぱり、まったく、ちっとも、お顔には出ませんけれど、
旅人がちょっぴり笑ったのは、だからなのでしょう。
領主様は、せめてその首の縫い目をどうにかしてやろうとお思いになりました。
使えそうなものは何処に仕舞ってあるだろう。
領主様がお部屋の中を見回した時、背中の方で、怪物がお行儀良く言いました。

「いただきます。」















次の日の朝。
領主様の従兄弟が、昨晩の寒さを案じて塔を訪れますと、領主様の姿がありません。
すぐに大勢の兵士をお城から呼び寄せ、森の中を探しましたが、徒労に終わりました。
かわりにお部屋で見つかったのは、不思議な羽毛です。
光に透かすと、まるで虹のようにきらきらして、このあたりに棲む鳥のものではありません。
あの旅人が連れていた極楽鳥に違いない。
そう結論づけた領主様の従兄弟は、その場に泣き崩れました。

「私が弟とも慈しみ、お慕いしていた領主様が、あの怪物に喰い殺されてしまった……ッ」


従兄弟は、涙が涸れるほど嘆き嘆いて、
翌日には自分が正式な領主の座についておりました。













以上が、タトラ山脈はアルバ・パテラの古城にまつわる
『笑わない領主様が怪物に食べられた物語』の顛末でございます。
今は昔の物語、巨人や竜と同じく、ただのおとぎ話です。

けれども、本当は、物語というものに終わりはないのです。
子供の寝静まった月夜、オモチャ達が箱から飛び出して宴するように、
語られない言葉、閉じられた書物の中で、
自由に、気ままに、誰にも知られぬ冒険が続いているのです。


死んだことにされた領主様は、実は旅人と連れだって南方への長旅に出かけただけで、
アレクサンドリアで医師になった後、故郷での従兄弟の悪政を知って北国に舞い戻るのだとか。
首に妙な痕のある旅人は、その後も諸国を放浪し続け、時折やっぱり酒のおかげで粗相をし、
首のことを聞かれると、「医師が治療済みですのでお構いなく。」とはぐらかしていたけれど、
震旦の皇帝に鳳凰を売りつけるペテンに巻き込まれた挙句追放され、
その後どうしてか、二人は東インド会社の船上で再会を果たし、
海賊の財宝を探しに新大陸へ渡るのだそうです。

二人の旅路に終わりはなく、
7月9日のブエノスアイレス、煤煙のロンドン。
国境も時間も軽々と飛び越えて、いつかは星々の彼方を目指すような。
荒唐無稽、融通無碍の大活劇。

そして、けれどまあたぶん、きっと。
終わらない物語の終わりの言葉は、他のおとぎ話と同じなのです。



二人は幸せに暮らしましたとさ。












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(了)

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主に首ちょんぱの部分ためにこの話作りましただってはろうぃーん。
旅人は吸血鬼と見せかけての、人食い。
元は、ヘルボーイの短編に出てきそうな古代の人食い神とかで。
それも、近隣住民が生贄として人間を差し出してくるのをなんとなく流れで食べてたけど、
人なんて食い飽きたと思ってた頃、人間の食べ物を食べてみたら、美味かった。
以降、諸国漫遊全世界美味いもの巡り。
今では獣も鳥も魚も平等に食べるし、野菜もウマイよね。
人の食べ物を食すようになってから人間ぽくなったけど、たまに野性に戻る。
中国にいた理由? フカヒレ食べたいね。

死なないことと、良く食べて良く眠ること以外、特に何の力もない。
領主様と喧嘩するとガチでボッコボコにされるレベル。
もう人間は食い飽きたと思ってるけど、領主様はちょっと普通とは言い難いので、興味はある。
でも、いただきます。は性的な意味。


領主様の従兄弟はトーマス。
赤毛でもいいし、違ってもいい。


実際の地形や本の名前が混じってますけど、それを元に時代とか地理なんて考えちゃ、ダメですよ。
一例をあげるとタトラ山脈にアルバ・パテラなんてないよ。
そいつは火星の地形です。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!





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