たいとる : 『モラトリアムの真珠層』
ながさ :ほどほど。
だいたいどのあたり :ジェイソンがロビンをやってた頃。 つまり昔々のお話で。
どんなおはなし :『梅が枝に春告げ鳥』の後、お約束で風邪をひいたおハルさん。 と、ブルース坊ちゃまのトラウマ話。
ふんいき :ツンデレ。
ちゅうい :腐女子向けだよ。 GL/蝙蝠
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次の朝、ハルがベッドから起き上がれなかったのは、
何ということもない。 風邪である。
深夜だったからといって、ウェイン邸の客人になることを軽く捉えてはいけない。
いつ帰ってくるか分からない主を待つ執事は、それはそれは優秀で、
実際、ハルが人並みに扱われたのは全て彼のおかげである。
ハルが何より喜んだのは温かく豪勢な食事で、
なんだかんだで昼の後は何も食べてなかった胃袋を、幸福で満たしてくれた。
一連の原因であるウェイン家の当主は、食事に同席していなかった。
普段なら、(休む気があるのなら、の話だが)
あのケープからグローブから脱ぎ散らかしながらバスルームに向かうか、
やはり脱ぎ散らかしながら自室のベッドに倒れこむ、だろうが。
客のある今日はまず自室で着替えたようだが、その後何かを思いついたようで、
また地下に引き篭もり、出てこない。
というような話を、慇懃な執事は淡々とした口調で話すので、
いったいどこまでがジョークなのか分からない。
いつのまにかワインのボトルは一本空いて、ゲストルームに案内された後、
ハルの記憶は曖昧になる。
朦朧とした、が正しいかもしれない。
翌朝、ハルはベッドから起き上がれなかった。
ソ連型でも香港型でもH5N1亜型でもない。 単純に、程度の酷い、風邪である。
グリーンランタンのリングは、この宇宙で最も強力な武器の一つと言われているが。
装備者の意志そのものが制約となる。
その意志に、リングを発動させるだけの "力 "がなければ、意味を成さない。
故に、風邪でぐったりしているハルなど、ただのぐったりしたハルである。
万能なるウェイン邸の執事は、病人の扱いも勿論心得たもので、
ただちに適切な処置を整えたのだが。
何事かとゲストルームを覗いたジェイソンが、
「おっさん、なんでウチにいるの?」
と聞くのを止めることは出来なかった。
ジェイソンに悪気はない。 これは語彙の問題である。
自分よりある程度年齢が上の男性なら、少年は9割9分9厘をまとめてそう分類する。
ただ、その一言は、ハルをさらにげんなりさせるものだったが。
ウェイン家の当主は、病人に拘る暇などないようだった。
それは当然のことだ。
彼の演ずるブルース・ウェインには、いくつかの顔がある。
巨大企業のCEOであり、ゴシップ誌を賑わす独身の大富豪で、華やかな遊蕩家。
"遊んでみせる "ことは、ブルース・ウェインの重要な責務の一つだった。
別の、表沙汰には出来ない用途に費やした資金を、その中で使ったことにも出来る。
ブルース・ウェインは、最近付き合っていると噂の美女をエスコートしてパーティーに現れ、
同じ夜、ゴッサムの深淵から黒い羽の蝙蝠が飛び立つ。
「……めんどくさい……」
現と夢を浮き沈みしながら、ハルは口の中で一言だけ呟いた。
執事は無言で首肯し、体温計を確認した。
ハルは、パイロットでもグリーンランタンでも、ハルはハルで、
けれど、ブルースはどこの誰でもない、らしい。
寝返りを打つと関節が痛かった。
「複雑な方ですから」
アルフレッドは、穏やかな声でそう答えた。
結局、ハルは二日間をベッドの上で過ごした。
パイロットの仕事の方には連絡が済んでいるようで、ハルはひたすら寝ていた。
意識の薄い混濁を、ただ眠り、眠って。
ある瞬間、はっと目を覚ました。
真夜中だった。
カーテンは閉まっている。
その闇の中、目だけを動かして、ウェイン邸にいることを思い出すと、
ベッドから起き上がり、バスルームに向かう。
身体は軽かった。
汗を流してさっぱりしてしまうと、ハルは少し考えた。
真夜中である。
うんざりするほど眠って目が覚めた。
そして、もう一睡も必要ないほど全快していた。
着替えてドアを開けると、廊下は しんと静まり返っていた。
広い邸内のどの辺りにいるのか、だいたいは分かるが、さてどちらに行こうか。
明かりのない夜闇を、ハルは適当に歩き出す。
外壁に面した廊下に出ると、窓の向こうに黒い森が広がっているのが見えた。
さらに向こうには市街地の明かりも浮かんでいるが、遠い。
あの喧騒の気配すら伝わってこない。
深い 静寂だった。
今夜は月もないのか、広く長い廊下は輪郭を朧にし、
夜闇は茫漠として見通すことができない。
奥へと歩くうち、己の形を忘れていくようで、
本当は、覚めない夢を彷徨っているのかもしれない。
そして、一つの扉があった。
隙間から闇へと微かに漏れる光が、ハルの手を扉にかける。
ほとんど音もなくそれは開いた。
あたたかな明かりが、その部屋を柔らかく満たしていた。
ハルは暫く入口に立っていた。
壁を飾る美しい風景画の数々は、美術館の中に入り込んだようだった。
暖炉のある側には、ソファが置かれている。
そこに誰かいる。
前に回って覗いてみると、
「……ブルース?」
肘掛に頭を凭せ、とても静かに、眠っていた。
考えてみれば別に不思議なことではない。
ここは彼の住まいで、睡眠は人間にとっては必要なことで。
しかし、あのバットマンは、果たして眠る夜があるのだろうか。
だから今、とても珍しい姿を、目にしているのかもしれない。
黒い仮面でないその顔自体、なんだか久し振りのような気がした。
四人掛けのソファに長々と横になったブルースには、毛布がかけられていた。
傍のテーブルには、ポットとティーカップ、手付かずの夜食。
書類の上に置かれたラップトップは電源が入ったまま。
ハルは、自然と頬が緩むのを感じた。
仕事中にうとうと眠り込んだ多忙な主人を、アルフレッドがどれほど大切にしているか、誰が見ても分かる。
明かない目蓋に、淡い影が落ちていた。
ブルースは良く眠っているようだった。
世話になった礼を言いに来たのだが、起こすこともないだろう。
ハルは戻ろうとして、暖炉の上に目を留めた。
優美なマントルピースには、写真が何枚も飾られている。
近づいてみると、映っているのは家族のようだ。
ウェイン家の一族だろうが、中には随分古そうな写真もある。
そういえば、ブルースの家族のことは、聞いたことがない。
視線を上げると、こちらの壁に飾られているのは、ほとんどが肖像画の類だった。
一枚の絵が、ハルの目を惹いた。
ちょうど暖炉の真上に飾られた、寄り添う男女。 若い夫婦だろう。
真珠のネックレスをした夫人の目許が、どことなく誰かを思わせた。
「私の両親が結婚した時に描かれたものだ」
声に振り返ると、ブルースが緩慢に上体を起こしたところだった。
似ていると思った目許の、その視線の漂う先は、
ハルでなく、自分の親でもない。
「身体はもういいのか」
「お世話にナリマシタ」
「礼ならアルフレッドに言え」
「そうする」
ハルはもう一度その肖像画に目をやった。
ウェイン邸にいる間、家族のいる気配を感じたことはない。
「それで、今はどうしてるんだ?」
「二人とも私が八歳の頃に死んだ」
さらりと口にしてハルを見上げた瞳は、深い湖のようだった。
「事故か」
「いや、撃ち殺された」
昔の話だ、と澱みのない声で言いながら。
ラップトップをテーブルから取り上げ、膝に乗せる。
途中だった仕事をするようで、肘掛に頬杖をついたブルースは、詰まらなそうにも見えた。
ハルは、黙ってその顔を眺めていた。
ブルースは何も言わず、片手でキーを叩く。
やがて、ハルはソファの片側に腰を下ろした。
ソファはあの肖像画を見上げる正面にあった。
「昔の話か」
呟くような言葉に、ブルースは視線だけを僅かに動かす。
「俺の父親のこと、知ってるか?」
知らない、とは 言えないブルースが、
やはり澱みなく答えたのは、パイロットだったハルの父親の、死亡事故だった。
ハルは、静かに頷いた。
「流石。 良く知ってる」
ブルースの答えは正確で、その日時も、場所も、状況も、
何もかも、ハルの記憶どおり。 ハルの "見た "とおりだった。
その日、ハルの父親を乗せた機体は、異常があったまま空を飛び、
自分を尊敬する息子の目の前で、墜落した。
「……俺は だめだったんだ」
その言葉の意味を問うことなく、ブルースはじっと睨むように視線を落とす。
ハルの目は、真っ直ぐに前を見据えていた。
そこには常に、遥か遠い地平がある。
二十年近く経った今も、ハルは、あの日見上げていた空の色を、憶えている。
世界の全てだと仰ぎ見ていたものを、一瞬で失った恐怖を。
「それでも、俺は空を飛びたかった」
同じ地平から飛び立ち、大気圏すら貫いて、宇宙を駆け抜ける光となっても。
それは、ハルと共にある。
「……傷の舐め合いなら、その気はない」
堅い声が言い放った。
ハルは、小さく笑った。
「おまえはそんなことしないだろ。 昔の話だ」
その表情を、ブルースは深い藍色の目を見開いて、凝視した。
そして、ほとんど聞き取れない声で、何事か呟く。
「ん? なんだって?」
聞き返されると、ブルースは黙り込んだ。
きつく眉を顰め、浮かせかけた頭をまた頬杖に戻す。
ハルがその顔を覗きこんでも、不機嫌な眼差しはラップトップから離れようとしない。
「まあ、面白い話でもなかったけどな」
「……そうじゃない」
今度は小さな声が答えたが、まるで頭痛でもするように、両目を閉じる。
その目も長い指が覆った。
「ブルース」
沈黙は、ハルが不思議に思うほど、頑なだった。
「おまえ、どうしたの」
ソファの片側と片側。 ハルは首を傾げて、距離を詰める。
惰性のように置いているラップトップを取り上げてみたが、それでもブルースは動こうとしない。
あまり黙ったままでいられると、ちょっと心配にもなってくる。
ハルはブルースの腿を膝で跨ぐと、正面から顔を覗きこんだ。
「近い。 離れろ」
その唇を見下ろしながら、遅いなあとハルは思った。
口付けは触れるだけ。 表情を隠そうとする手の甲に、頬に、すぐに黙ってしまう唇に。
ハルの下で、ブルースが身動ぎした。
震えるように、掠れた吐息を漏らした。
その唇を、ハルは何度でも唇で塞ぐ。
「……どうしておまえは そうなんだッ」
「何が」
「さっきまで真剣な話をしていただろ!」
「いや、今も真面目」
そんな言葉だけで、ブルースはハルを止めない。
背凭れから完全に身体が落ちて、上からハルが覆い被さっても。
止められないのかもしれない。
右の拳も、左の拳も、まるで何かを必死で守るように、両の眼窩に押し当てて。
ハルがその手首を優しく捉えただけで、びくんと震えた。
「……だから、おまえは嫌いなんだ、 ハル」
ハルは、知らない。
血に染まった闇路を、二人の屍の間で跪き、ブルースはその目で見ていた。
だんだんと失われていく体温を抱きながら、血の中に散らばった真珠を、その目で。
その日から闇の底にいるブルースの憎悪を、怨嗟を、憤怒を、絶望を、哀惜を、恐怖を
貪り尽くして暗黒の怪物は生まれ、夜闇の翼に包まれた影の世界をブルースは歩いてきた。
その翼は、たしかにブルースを守るためにあった。
けれども、眼球の奥の暗がりにはいつも、小さなブルースがいる。
闇路に取り残された独りきりの子供が、ずっとそこにいるから。
それが、いつまでも、いつまでも、痛むから。
ブルースは隠すことしかできない。
笑うことなど、できない。
知らないはずのハルは、酷く優しくブルースの手を外させる。
掴んだ手首と、掌の熱が馴染んでも、閉ざしたままの目蓋は、睫毛を震わせるだけ。
その頑なさに、いっそ心打たれたいとハルは思う。
「なに怒ってるんだ」
鼻先の触れ合う距離で問えば。
喉の奥から低く唸るように否定した。
「じゃあ すねてるんだ」
「うるさい」
堪らずハルは笑った。 声は上げなかったが、気配でブルースが分からないはずがない。
戦慄くように唇を噛んで、どうにもできず、ようやく明けた双眸は。
睨むような、潤むような、藍色の。
「笑うな」
その手を払って、ブルースは最後の距離を唇で塞いだ。
地平の果てに機影は去り。
闇路は永遠に夜の底。
それでもハルは笑った。
翌朝、ハルはベッドの上で目を覚ました。
朝とはいえないのかもしれない。 大きな窓から差し込む日の光はもう明るい。
ブルースは、隣でまだ眠っている。
ハルは身体を起こすと、しげしげとその姿を眺めた。
何かを抱きかかえるように、シーツにくるまって。
眠るというよりも、意識をどこか、どことも知れぬ場所へ、深く沈めたような。
肩の辺りのシーツに指先をひっかけて、起こさないように、引き下ろす。
こちらを向いた背が半分も露わになる前に、刻み込まれたいくつもの傷痕が顔を出す。
夜闇の中でなぞった数よりも、ずっと多い。
と、眺めていたハルは、いつのまにかブルースがこちらを見ていることに気づいた。
普段よりも淡い色をした瞳が、寝起きの無感動さでハルを流し見ると、
そのまま、また目蓋を下ろした。
静かに、微かに、息をつく。
起きるのではないらしい。
ハルはシーツを直してやると、ベッドから降りた。
頭からシャワーを浴びて、広すぎじゃないのかバスルーム とか考えながら。
思うのは。
夜や 傷や 銃弾や
嗚咽に似たあの声の。
それらが取り留めもなく混ざり合い、熱い水沫の中へ流れ落ちる。
そのうち、誰かがバスルームのドアを開けた。
「ブルース?」
「旦那様は後一時間はお目覚めにならないでしょう」
抑制のきいた、世界の終末にも動じないだろう、その声は。
「食事の支度が整いました。 どうぞ一階の食堂にいらしてください」
咄嗟に答えられなかったハルの、口の中で転がした曖昧な音を、
了解と取ったアルフレッドは一礼して出て行った。
ウェイン邸の偉大なる執事が完全に部屋を後にしてから、ハルはようやく声に出した。
「……何も してませんよ?」
白々しいなあと自分でも思った。
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おハルさん的に、蝙蝠より執事のほうが怖い。 ごはん作ってくれる人=エライ人。
んでも、執事は別に怒ってはいない。 たぶん。
ていうか、主人が蝙蝠やってるよりは男を寝所に連れ込みました、のほうが健全だなあと思ってる。
ただし、主人が何かしらの不利益をこうむった場合、バッテリーに鉛弾がぶちこまれるぐらいは起こる。 親心。
途中の暖炉の部屋は、元はお母さんの部屋、というイメージでした。
おハルさんと坊ちゃまは、共通点があるけれども。
まるで違う結果になりましたよ、ぐらいでちょうどいい。
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